たことが現はれてゐる。禮記の檀弓などにもやはり同樣のことが見えてゐる。又孟子の中にも、公孫丑篇に、子夏と曾子との考へ方の相違を論じ、その他の孔門の諸子たちを評論したことが見える。荀子などになると、儒家の中で子思・孟子を排斥し、仲弓などを尊ぶ傾きが見え、すでに儒家の中で、互に相容れない學派を生じたことを示してゐる。それが荀子の教を聞いたといふ韓非子になると、その顯學篇に、明かに各派の儒家を擧げてある。即ち子張之儒・子思之儒・顏氏之儒・孟氏之儒・漆雕氏之儒・仲良氏之儒・孫氏(荀子)之儒・樂正氏之儒のあることを記してゐる。
儒家の次に盛になつたのは墨家である。墨子の學問も、韓非子の顯學篇によると、やはり幾つかに分れたやうである。即ち相里氏之墨・相夫氏之墨・※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]陵氏之墨があり、儒家分れて八となり、墨家は三となり、取捨相反して同じからず、各※[#二の字点、1−2−22]自ら稱して眞の孔墨といふが、どれが本當だか分らぬと云つてゐる。墨家の分れたことは、この外、莊子の天下篇にも見え、それにやはり相里勤、※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]陵氏などに分れたことを書いてあるから、かかることは確かなことであらうと推察せられる。
その他のあらゆる諸子について論じたものでは、孟子の中には、墨子とともに楊子を排斥することを論じ、孟子が告子と主義の上で議論したことを書き、又農學家ともいふべき陳相と論じたことを記し、かくて既に學派の異同につき論辯したことを書いてゐる。荀子には非十二子といふ篇があり、當時行はれた諸子の主義につき批評し、殊に荀子は、その中の同じ學派なる子思・孟子については特別に攻撃を加へた。荀子にはその外、天論篇に諸子の長短を論じた箇處がある。又莊子の天下篇には、各派の長短を盛に論じてある。
かくの如く、ともかく戰國時代の諸子からして、既に他の各派との論爭上より、學派の區別を明かにすることが行はれた。もつとも、これらの書が悉く戰國に書かれたのではないが、ともかく色々の變つた諸子が出る以上、各※[#二の字点、1−2−22]特別の主義があつたことは爭ふべからざることである。されば漢代になつて、色々の書籍を總括して見られる位置にゐた人は、勿論諸子の各※[#二の字点、1−2−22]の流派に就てその長所短所を考へるのは自然のことで
前へ
次へ
全56ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング