ある。二劉以前に、すでに司馬談・司馬遷父子は、太史の官にあつて、朝廷に集まるあらゆる書籍を總覽することができた。故に史記の太史公自序によると、司馬談がすでに六家の要指を論じたことが記されてゐる。六家といふのは、陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家のことであるが、談は元來、道家を學んだ人で、六家を論ずる上に於て、道家を最も偉いものとした――これによつて、司馬遷も亦同じく道家を尊んだやうに云ふのは誤りである。――この六家要指になると、大分二劉の學問に類似してゐるが、その違ふところは、司馬談の考へ方でも、單に六家の長短を論ずるのが主で、その善い所はどうしても捨てられず、その弊害は考へねばならぬといふ風の考へ方であつて、まだこれには、六家を歴史的に考へるといふ考へ方はない。然るに二劉の學問は、この各派の流別を論ずる上に於て、一一歴史的の意味を附した點が異るのである。
劉向校書の由來とその方法
劉向・劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が目録を編纂するに至つた由來は、漢書藝文志に大體記されてゐる。藝文志の云ふところによると、――向・※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]からして既に儒家中心の考へ方で、藝文志もその意を受けてゐるが――孔子が沒くなつて時がたつと、孔子の學問の中に、又幾多の派が出來た。これは單に韓非子の顯學篇などに云ふところの派のみならず、孔子の殘した經書について、幾通りかそれを傳へる家が分れたことを云つてゐる。かかることのある間に、秦が天下を併せて、書籍を燒くといふことが起り、そこで漢になつて大いに書籍を集めたが、武帝の時代までに色々集まつた書籍には、缺本が多かつた。その爲めに、書籍を集めるための官を設けたことが書いてあるが、これは劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の説によると、その集める場所は、宮廷の内と外とに分れ、外の方には太常・太史・博士、内の方には廷閣・廣内・祕室に藏書の場所を設けた。そして諸方より書籍を獻納する路を開き、獻じたものには賞を與へることになつてゐた。又書籍を寫す官を置いて本を集めたので、色々の本が多數に集まつたが、成帝の時までに、それらの本が又散亡する傾きがあつたので、更に集めることになり、陳農に命じて天下に書を求めしめた。この時、劉向が書籍の校正係りを命ぜられた。向は經傳・諸子・詩賦に關するものを
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