校正したが、その他の專門學に屬するものは、歩兵校尉任宏が兵書を校正し、太史令尹咸が數術を、侍醫李柱國が方技を校正することになり、さうして一書の校正の終る毎に、劉向がそれに篇目を分ち附け、その本の趣意の大要を撮り、そのことを別に書き、それを天子に上つた。それが劉向の別録である。
この別録が今日殘つて居れば、大いに有益であらうが、不幸にして早く散佚した。今日では、この別録の一部分ともいふべきものは、戰國策・晏子春秋・列子などの書に附いてゐる。その校正の仕方は、必ずしも劉向一人の力によつたのではないやうである。諸所にある本を集めて校正した。第一は内府にある本、即ち中祕の本、これに劉向自身の本、他人所有の本などの多數の本を集めて一一校正した。戰國策に附いてゐる別録の文を見ると、どういふ風に校正したかが分る。即ち文字の異同を校正したことが見える。又晏子春秋の別録を見ると、向が當時校正をするに際し、從來の書で編輯の工合の亂雜になつてゐるものは、彼の考で一一新たに正して分類したことを書き、その分類の仕方を擧げてゐる。さうしてその校正が終ると、皆「殺青す、書繕寫すべし」と書いてある。殺青すといふのは、即ち竹簡に書くことである。昔の説では、殺青とは竹を書物になるやうに簡にして書くことであるが、新しい竹には油があり蟲がつき易いので、火の上で炙つて乾かして油を去り、それを削つて書くことであるといはれる。繕寫すべしといふのは、當時新たに行はれて來た素に上せること、即ち白い絹に書くことであると云はれる。
ともかく、藝文志を見ると、當時五百九十六家の書があり、一萬三千二百六十九卷といふ卷數であるが、之を劉向が總裁して、これに一一精密なる校正録と解題とを作つて上つたのである。ただこの劉向の時に、之を總論するものが既に出來たかどうかは分らない。一一の本については、その著述の由來、その趣意、その長所短所を詳しく論じてあるが、それらの總論として全體に渉つて論じたものが出來たかどうか分らない。その中に向は死に、子の※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が天子より命ぜられ、相續して行ふこととなつた。
劉向の別録の佚文とその體裁
劉向の別録の中で、今日まで幾らか滿足に殘つてゐるのは、戰國策・管子・晏子・荀子・韓非子・列子・※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]析子のもの
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