もかく、解題らしいものは集めておいたので、一貫した主義はないらしい。清朝の學者は、己が使ふのに便利なものを褒めたので、――鄭樵の不評判や、楊守敬の史略攻撃もこの傾きがあると思はれる。――文獻通考は少し買ひ被つた嫌ひがないでもない。畢竟便利であるといふに止まり、著者の見識の見るべきものがあるのではない。しかしともかく目録學の材料としては、この經籍考は必要なものである。
宋代の目録學は、以上の如く、崇文總目によつて一つの方法を生じ、鄭樵は理論を考へ、高王二氏は佚書に對する方法を發明したのが重要な點である。
宋史藝文志――正史藝文志の行詰り
元になると宋史藝文志が出來た。これは從來、亂雜であるとて攻撃されてゐる。宋史全體が不評判なために藝文志も攻撃されるが、その方法は新唐書藝文志と同じ方法を取つたに過ぎない。宋代に作られた四度の目録を一つに合併し、宋末の本で之に入らぬものを附加し、それらは唐志と同樣に不著録として載せたのである。ただ四度の目録を合併し、その重複を削つただけで、精密に之に關して考へなかつたので、手落ちや誤りがあつて攻撃されるが、それは新唐書も同じである。殊に宋末の如く非常に本の殖えた時には、目録學は困難とならざるを得ない。殊に宋の亡びて後八十年九十年たつて編纂するには多くの困難があつたのであらう。要するに宋史藝文志の頃より、宋代の著述目録としては多少參考になるが、それ以前の本に關しては、唐書藝文志からあまりに役に立たぬやうになつてゐるが、宋史藝文志もこの點に於ては同じである。卷數の如きも、前代の目録と同じであつても、果して同じ内容であるか否かさへ不明になつた。宋以前の古書については、清朝の學者も之には頼らない。ここに至つて正史の藝文志は行きつまり、古來の本をそのまま正史に著録することは漸く無意味となつた。それ故、これより後に正史を編纂する時には、藝文志を作らぬか、或は作るからには、別の方法を取らねばならなくなつた。これ明史の藝文志が古來の方法を一變した所以である。
焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の國史經籍志――目録學の復興
明になると朝廷では文淵閣に書籍を集めたが、文淵閣の書目は單に所謂簿録で、全くただ在庫書籍の帳面に過ぎず、殆ど卷數も書かず、外形より見た册數だけを録した。
明代には全く目録學
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