い目録學を起した。即ち當時にあまり知られぬ本又はなくなつた本につき、内容の概念を與へることに骨を折つた。玉海には、當時に殘つた本のことも多く擧げたが、その擧げ方は、その本の内容の大體を知らしめるやうに擧げたので、内容の明かなものは簡單にし、むしろその本の出來るまでの他の本との關係に注意した。つまり現在殘つてゐる本と殘らぬ本との間の内容の連絡をつけ、歴史的に學問の筋道が通るやうに考へたのである。元來玉海は辭學の書として、文章を書くための――天子の詔敕などを書くための學問で、それには多く故事を知る必要があり、その目的で出來た書であるが、辭學として普通に役立つ以上に、學問になるやうに皮肉に考へて作られてゐる。王應麟が手を着ければ、類書たるべき書も學問となるのである。
漢藝文志考證の方は、なくなつた本について、どれだけの内容が知り得るかを試みたもので、色々その本に關し、類書その他、古の本の注などから、佚書の内容を知り得る材料を集めて考證したものである。
以上の二書によつて、王應麟の一種の目録學、即ち現在分つてゐる本と分らない本とをつなぎ、その穴を填める方法が分る。彼は高似孫より後の人であるから、その影響を受けたのであらうが、王應麟が大學者で、名声高く、又玉海が大いに世に行はれた爲めに、この學風は彼が元祖のやうに考へられてゐるが、その前に高似孫のあることを忘れてはならぬ。
ともかく清朝になつて、學者の非常に骨を折つた輯佚の風は、すでに南宋の末年に行はれ、清朝人はこれを盛大にしたに過ぎぬ。しかも清人は單に輯佚を目的として、全體の學問の一部分として之を爲すことを忘れたことのあるのは、宋人に及ばぬ點である。
馬端臨の文獻通考の經籍考
王應麟と並んで有名なのは、宋末の馬端臨の文獻通考の經籍考であるが、これも勿論目録學上大切なもので、どうかすると、今日この本がないと解題さへ出來ぬ本が多い。崇文總目の大部分はこの本より復活された。彼の最もよく用ひたのは郡齋讀書志と直齋書録解題であるが、その他にも用ひ得べきものはよく集めた。彼も亦上手に人の書いたものを利用して自分の著述になるやうに排列した。これらは詳しく書かれ、解題の意味も明瞭なる爲めに、後世の人から珍重された。しかしその集め方は、高似孫、王應麟の如く、學問の全體の上より考へる意味があつたかどうかは疑問である。と
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