學が出來る。目録學より見て史學・諸子の全體を知らしめ、しかも自分の組立てた理論でなくして、人の議論を順序よく並べて、昔の人の議論で自分の説を立てようとする。これは學問の深い人でなければ不可能のことである。當時この人の學問に對し、以隱僻爲博といふ批評があるが(直齋書録解題)、ともかく他人の知らぬ本にまで行きとどいてゐた人である。緯略の中でも、色々の古書が殘つて居らないので、唐代の類書などから引用して、その學問の筋道を立てるに缺けた所を補はうとした。この方法は後に明清になつて大いに行はれたが、その風の元祖と云つてもよい。そこらも王應麟の學風と類し、學問の全體を組織せんとする時、現存書のみでは穴があく處がある。それを類書によつて補はうとした。鄭樵もこの點を考へなかつたのではないが、彼は單に書の名前の上のみから考へたので、時として僞書なども取つた。高似孫はよく類書その他の古書に佚書の一部分を殘したものを引き拔いて補つた。後に古學の研究に盛に用ひられた方法を、宋代に考へてゐたのである。當時の人に隱僻として考へられたのもこの點であるが、彼は目録學より全體の學問を考へる立派な方法を持つてゐたので、彼の書は量は少いが非常によいところがあるのである。史略を日本に得て、古逸叢書の中に之を收めた楊守敬は、その瑣末な點を擧げて之を攻撃し、これを子略・緯略に比してよほど劣ると云つた。そして歴史家の流別に關する議論は劉知幾の史通に詳しく、高似孫はその範圍を出でず、むやみに古書を引き拔き、詳略當を失すと云つてゐるが、これは彼の眞の學風を領解しない故である。もつともこの書は二十六七日間で出來た爲めに粗略なのであらうと云つてゐるが、この人は頭の中に歴史に關する考は前からあり、書き拔くのにそれだけの日數を要したに過ぎず、引用も極めて巧みである。ともかくこれは鄭樵以後の目録學に一新紀元をなしたもので、勿論鄭樵の影響は受けたが、鄭樵のあまり考へなかつた、本の内容に注意することや、亡書を目録以外に類書などより取ることなどは、彼の發明と云つてよい。
王應臨の目録學
次に來るのは王應麟である。その目録學に關する考は、玉海の中の藝文類にある。又漢藝文志考證を書き、玉海に附録されてゐる。この二つのものが主なるものであるが、彼は高似孫のやりかけたごく一部分のことに特に力を用ひ、之を以て一種の新らし
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