ではなく、變つたことを書いたものを擧げた。かく色々の方から史學に注意したが、ともかくあまり大部の書ではないが、それで大體歴史の觀念をつかむことが出來るやうに手際よく出來てゐて、學問の相當に出來た人であることが分る。
子略は歴代の藝文志・經籍志に載つてゐる諸子に關するものを大體擧げてゐる。今日に於て特に貴重なのは、今日佚してゐる梁の※[#「广+臾」、第3水準1−84−13]仲容の子鈔を擧げてゐることで、これは隋書經籍志に名のみ見えるものである。又通志の藝文略を載せてゐる。色々の本の解題をつけたが、好んで人の注意しない妙な本、例へば陰符經・握奇經などのやうなものにつけてゐる。この人も劉向以來の目録學の大意を心得てゐたと見え、學問の源流の分るやうに解題した。もつとも今日殘つてゐる子略は、百川學海に載つてゐるが、これが全體のものか省略のものか分らない。或はもつと多く解題があつたかも知れぬが、今日殘つてゐるのは諸子の一部分に過ぎない。
高似孫の目録學に關する著述は以上の二つである。その他、緯略があるが、目録學の本ではない。目録學を經と考へ、これに對する緯であつて、史略・子略に於ては、學問の源流に關する大體の輪廓を示し、緯略では細かい事柄で讀書に際し疑問の起つたことに考證を加へたもので、中には目録學らしい處もある。例へば、世説の注に引用された諸書より歴史に關するものを全部抽出してゐるなどは、彼に目録學の知識があつたため注意がとどいたのであらう。これは一見隨筆の體裁であるけれども、著者の考では、目録學の遺を拾ひ、細かいことを補ふつもりで書いたものらしい。
騷略は全然目録學ではない。屈原の離騷につづいて作つたものである。元來漢代までは、離騷に眞似て作つたものがあつたが、唐宋以後にはあまり流行らなかつた。彼は漢代の人に倣つて之を復活した。そしてその中に多少自己の境遇に關する心持を現はしてゐるやうである。
高似孫の學風
大體彼のやり方は、宋の時の一般のやり方と異り、漢以來の古い學問の仕方を復活せんとした。鄭樵の目録學の影響を受けながら、それより一段内容に立入つて考へ、又鄭樵の目録學は自己の頭で組織立てた理論であつたが、高似孫はすべて昔からあるものについて之を組織しようとした。即ち歴史に關する理論も、昔から多くの人が書いたものを引き拔いて並べると、そこに一種の史
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