類法がないからである。漢書藝文志もこれをそのまま取つたので、これも大いに惡いところがある。一體歴史は昔は一家の學問で、家學である。唐代になつて始めて多數の人の手で作つた。晉書・隋書がさうである。これにも長所があり、諸志類を專門家に任せたのはよい。殊に隋書の諸志は出來がよいと云つてゐる。
又學は專門を尊ぶことを説き、專門によつて分類しない失を擧げて、漢書藝文志で班固が七略にない書を加へたものは最も惡いとした。即ち揚雄の書を入れてあるのは、七略にはまだ入つてゐないのを補つたのであるが、それを揚雄所序三十八篇として、その中に揚雄の作つた太玄も法言も樂箴も皆入れてある。太玄は易の眞似、法言は諸子の類、樂箴は雜家の類である。これを一人の作だからとて一纏めにして儒家に入れたのは、班固が分類法を知らぬためであると云ふ。
その他、道家と道書、即ち老莊と道教の本との區別、法家と刑法、即ち申韓と律令との區別をしない誤りを説き、又醫術に於ても、漢書藝文志では色々分類をし、解剖學や生理學や内科外科の處方もある。これを後世一緒にしたのは、後人がぞんざいな爲めであると云つてゐる。
かく一一分類法の誤りを論じたので、これより支那の目録學の分類がやかましくなつた。
しかし鄭樵の議論には、往々理論が勝つて、實際に行ふと間違ひ易いこともある。即ち「闕書備於後世」「亡書出於後世」「亡書出於民間」等の論で、その闕書後世に備はるといふのは、同じ本が前に卷數少く後世に多ければ後に備はつたと考へた。亡書後世に出づといふことも、昔なくなつてゐたといふ本、例へば尚書の孔安國傳の舜典が漢に出でずして晉に出た――これは誤り――と云つてゐるが、これらは後に出る僞物のことを念頭におかなかつたのである。亡書の民間に出ることも、その主もな例として色々の本を擧げてあるのは、大部分は僞書である。これは單に目録の學の理論のみを主として、その本の内容眞僞如何を考へるに至らなかつた爲めである。かかる缺點があり、藝文略を書く上にも色々な缺點が出たが、理論に至つては、彼が始めて現はしたのであつて、從來は理論が編纂された目録の上に何となしに現はれてゐたに過ぎなかつたのを抽出して纏めたのである。この校讐略のために支那の目録學ははつきりしたのである。
高似孫の史略・子略
鄭樵の藝文略・校讐略が出てから、南宋時代には、色
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