はすべて經類に入り、史書は皆史類に入る。これを解題して經なり史なりといふ必要はない。されば隋書經籍志には、疑はしいものにだけ解題がある。崇文總目が書毎に解題をしたのは無用のことであるといふ。その例を擧げて、宋代に出來た太平廣記は太平御覽から別出して異事のみを書いたものであるから、之を解題するにはそのことを書けばよい。然るに崇文總目には、「廣く群書を採り、類を以て門を分つ」とある。これはあらゆる類書に共通のことである。これでは太平廣記と太平御覽との區別がつかない。崇文總目の解題は大抵かくの如きもので、必要のない解釋をつけてゐる。又崇文總目の實録の部に唐の實録が載つてゐるが、それに一一唐人撰と書いてある。唐實録といふ以上、唐人の撰なることは云ふ必要はない。文集などでも、鄭樵の藝文略には、朝代を分け、唐人、宋人と分けてゐる。かうすれば姓名のみを書けばよいから手數が省ける。崇文總目には一一唐の誰、宋の誰の撰とあるのは不必要である。これらは誰でも分つてゐることであるが、崇文總目は注意しなかつたのであると云つてゐる。
 又本には解釋すべき本とその必要なき本とがある。崇文總目は皆解釋した。本には名を見れば内容の分るものがある。例へば鄭景岫の南中四時攝生論などは、名を見れば分るものを崇文總目は解釋してゐる。陳昌胤の百中傷寒論なども名を見れば分る。それを百中は必ず癒る意などと解してゐるのは愚である。隋書經籍志などは、人の姓名のみを書いて、つまらぬ解題をしてゐない。ただ歴史の部の中で、雜史だけは混雜が多いので注釋をしてあるが、分り易いものは注釋してゐない。最も分りにくいのは覇史である。分裂した時の列國の歴史であるから説明せねばならぬ。趙に前趙・後趙があり、涼に北涼・西涼があり、混雜し易いために一一注釋してある。唐書藝文志は注釋すべきものも注釋しない。崇文總目はすべからざるものにもしてゐる。これ皆目録の體を失したものであるとする。文集類の分類法についても色々議論をしてゐる。
 かかる分類法の混雜については、元祖たる二劉にさへ不滿を云ひ、七略などでも、よく出來てゐるのは專門家の作つた部分で、例へば兵略は任宏が作り、數術は尹咸、方技は李柱國が作つたから、この三つはよく出來てゐる。劉向父子の作つた三つは無駄があり、混雜もあり、出來が惡い。又文字の本だけを集め、圖譜を集めないのは、二劉の胸中に分
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