が傳はり、作られたものからその精神の流れるのを暗に認めるに過ぎなかつたが、之をはつきり理論として纏めたものであるから、校讐略を謗るのはよくない。

       校讐略の大要

 この人の議論は、色々のことにつき、後世の學者に研究のヒントを與へた。殊に校讐略の最初にある、秦の始皇が儒學を亡ぼしたといふが、それは誤りであるといふ議論などは、後世の學者に議論の種を與へたが、彼がかくの如き論をしたのは、ただ世間の人が始皇が書を焚いたといふのに對して反對の議論を出して喜んでゐるのではなく、目録學より出た議論である。目録學は書籍の分類の學であるが、これは即ち學の專門を明かにするためのものである。學が專門になると、たとへ書籍が一時なくなり、一部分なくなり、或は殆ど全部なくなつても、決してこれが絶えるものではない。どこかに專門の學が傳はる以上、書物の形はなくなつても、別の形で傳はるか、精神で殘るか、書籍は亡びないものであるといふ理由で、秦の時學問が亡びたのではないとした。專門の學問がなくなると、書物の形はあつても書籍は亡びる。故に書籍は類例の法が大切である。例へば醫者の學問も、書物がなくなつたり殘つたりしてゐるが、醫者の學問は絶えない。釋老の書も、屡※[#二の字点、1−2−22]變改を經てゐるが、しかもその書は絶えない。漢籍に於ても、漢代の易の本は非常に多かつたが、多くは傳はらず、ただ卜筮の易は傳はつてゐる。卜筮は專門の仕事で、必要上これをなくされないから絶えない。それ故、目録學は、學問の專門を明かにするため、類例の法を明かにするのが根本であるといふ議論である。
 これによつて上述の十二類の分類法を作つたが、これは從來の四部の分類法よりはよほど學術的に出來てゐる。從來の四部の中で、最も一纏めにすることの不合理なのは諸子類であつて、天文・五行・藝術・醫方まで皆これに入れてゐるが、これは不都合であるとて、十二類の分類法では皆これを分けた。殊に經書の中で、經類・禮類・樂類を分けたのはよく考へたもので、單に書籍により傳はるものと、禮樂の如く仕事によつて傳はるものとを別にしたのである。その中で、又色々細かい分類をしたが、これは學問の方法としては相當に綿密に出來てゐる。彼は昔の七略でさへぞんざいである、四部の分け方はあまりにやりつぱなしだといふ議論である。かくの如く類例を分け、專門の學術が明
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