あり、史通のやうなものまで新唐書藝文志では含ませてある。崇文總目では史通はこの中に入らぬ。そこは同じ歐陽修が兩方に關係しても、總體の人の意見が異つたのかも知れぬ。しかし主もな本としては文心雕龍などが中心となつてゐる。これが目録の最後の部類を占め、殊に新唐書藝文志では、これが何となしに目録學の結論のやうな形をなしてゐる。事實この種類の本に、別録・七略の精神が幾分殘つてゐる。新唐書藝文志は、心あつて史通までもここに入れたかは分らぬが、ともかく文史類が最後を占めてゐるのは、當時、批評學が目録の最後に來ることの必要が自然に感じられたのであらう。
この新唐書藝文志・崇文總目の間は、目録學の一つの時代で、正史の中に入れられた目録は惡くなつたが、その代りに崇文總目の如きものが特別の著述として出來ることとなつた。その後、南宋の時代には又一つの特別の状態が出來る。
宋祕書省續編到四庫闕書目
南宋の初めには、當時の朝廷としては、崇文總目にある書籍を復興せんとする傾きがあり、その爲めに出來た目録がある。もつとも崇文總目の時からして、官庫にある書籍の全部を録したといふ譯ではなかつたらしく、ややもすると、當時有つたに違ひなく、しかも必要な本で、總目に載せられてゐないのがあるらしい。一一引合せたことはないが、偶然の經驗から氣づいたのでは、當時司馬光が資治通鑑を作る時に(崇文總目の出來たより後のこと)引用した本の目録が、南宋の時の高似孫の史略に載せてあるが、その中に五胡十六國のことを書いた十六國春秋がある。それが崇文總目にはないやうである。この載るべき筈のものが載らなかつたことは、支那の學者も注意してゐる。官庫の書目より多少ぬけたり、故意に載せなかつたもののあることは隋志と同程度である。しかしともかくこれは官庫の目録である。それ故、南宋に於て書籍を復興せんとするや、宋祕書省續編到四庫闕書目を作つた。これは崇文總目を根據として、南宋の初め戰亂の後の現在書目を調べ、崇文總目にあつて闕けたものには闕と注し、搜訪に便するやうにしたものである。その時崇文院は祕書省と改まつた。これは崇文院の復興を目的として作つたもので、朝廷はこの時まで崇文院を標準としてゐたのである。
しかしその時既に目録に關する議論も新たに起り、南宋時代には目録學上に新現象が又起つて來た。新らしい考への出來たのは即
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