編年によつて記事を書く方法が盛に行はれるに至つた。元來、傳といふのは、經を解釋する意味であるが、單に解釋に止まらず、詳しい記事を書くことになつた。この體は後世盛に行はれ、隋史に所謂古史家である。(隋史では、紀傳體を正史とし、編年體を古史とす。)國語家とは、國別に書く歴史である。戰國策もこの流儀の歴史であり、その後、支那の國が分裂する毎に、この體裁の歴史が屡々用ひられたが、次第に史記・漢書の體裁が盛になるにつれて、國語家の體裁は衰へたと云つてゐる。史記家と漢書家とは、共に紀傳體の歴史であるが、史記の方は通史で、漢書は斷代史である。これが兩者の間の相違である。大體漢書が出來てからは、正史は斷代史の體裁になつたが、時々は通史の體裁で歴史を書いた人もあり、劉知幾はむしろ正史は斷代史をよしとしたが、後になると、歴史は通史でなければならぬといふ論も起つた。ともかくこの二つの區別あることを認めたのは劉知幾である。大體以上の如く六家に分けたが、これは歴史を作る人の主義より云へば、かかる分ち方も必要であるが、現存せる書籍の分類としては不便であるから、――勿論劉氏は目録學のために考へたのではないが――他には採用されなかつた。しかし隋史で書籍の内容に關する目録が出來るとともに、編纂の主義より來る分類が唐初に考へられたことは、目録學上參考すべきことである。

       日本國現在書目録

 支那でこの次に來るのは舊唐書の經籍志であるが、この前に、日本の本でちやうど隋唐兩志の間に出來た日本國現在書目録がある。藤原佐世の撰で、宇多天皇の寛平年間に出來たものの如くである。これは、從來日本で支那の書籍を輸入して居り、そして朝廷の藏書は多く冷然院にあつたらしいが、これが火災に遭つて燒けた。その後再び集めて、この目録が出來たのである。冷然院は火を忌んで冷泉院と改稱した。これは目録學としては、何等取るべき所のないもので、大體は隋書經籍志の分類によつてゐる。舊唐書の經籍志も多く隋志によつてゐるが、分類の内容は變つてゐる。然るに日本國現在書目録は、實際の分類の仕方まで隋志と同じである。舊唐書經籍志は、玄宗時代の古今書録によつて書いたもので、古今書録は見在書目録以前のものであるが、佐世はこの分類は取らなかつたのである。これに載つてゐる本の名を見て、隋志と舊唐志との間にある本を知るためには必要のものであるが
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