「音+欠」、第3水準1−86−32]の書いた解題は、向のものよりも殘つてゐない。今日殘つてゐるのは、ただ上山海經表だけである。大體に於て向の書き方に似てゐるが、この一篇で見ると、いくらか向よりも學問の仕方が雜駁になつてゐるやうに感ぜられる。ともかく、この二代の仕事は、二十餘年間繼續し、その中、大部分は向がしたので、※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]一人で關係したのは僅か一二年である。それ故、全體からは向の仕事と云つてよい。いよいよ完成したのは哀帝の建平年間で、今日の山海經にも、建平元年に校正した奧書きやうのものが、第十三篇の末に附けられてある。もしこの二代の仕事が、全部殘つて居れば大したものであるが、今日では、その極めて省略されたものが、漢書藝文志に殘つてゐるだけである。元來向の別録は二十卷あつたと云はれる。それを※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が省略して七略としたのであるが、七略が一略一卷づつで七卷である。それが漢書藝文志になる時に、餘程節略せられた。しかし幸ひにこの藝文志があるために、殊に班固が之を漢書に取入れるとき、本の目録を増減したり、部類を移したりしたことについては、皆そのことを斷わつてあるので、ともかく七略としての大體は分る。班固の手を入れなかつた前の大體も分る。
それ故、後の人は藝文志の研究をするのであるが、この藝文志の研究は、隨分古くから始まつて居り、唐の顏師古が漢書の注を書いたときに、すでに當時まだ存在してゐた別録並びに七略によつて、その簡略に過ぎた處をいくらか補つてあるので、之によつて又別録・七略より藝文志に移つて行つた樣子が分る。南宋時代に及んで、鄭樵は藝文志を基礎として所謂目録學、校讐學の大體の輪廓を立てて見た。從來目録を書く人は、皆暗に別録・七略以來の趣意を繼承してゐても、如何なる點が特に目録學として注意されたかを論じたものは無かつたが、鄭樵に至つて始めてその趣意を調べ出すことになつた。南宋の終りに、王應麟が藝文志の研究を始めたが、ただこれは、全體の趣意について論ずるのではなく、藝文志に載せられてゐて、今日なくなつた本について研究をしたのである。とにかく、この頃より以後、藝文志の研究が盛になり、清朝に入つて、章學誠は校讐通義を作つて、詳しい研究評論をするに至つた。今日の支那に於けるこの方面の學者は、皆章學誠の系統を引いて
前へ
次へ
全56ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング