別することが出來なくなつたこと、書籍を拔き書きする一種の本が出來て、それを何の部類に屬してよいか分らなくなつたこと、詩文を評點することが起つて、文集の中でも別集とも總集ともつかないものになつて來たこと、かかることから自然七略の法が復興出來なくなつた。しかし七略の法が復興出來なくなり、又著述にえたいの知れぬものが出來ることは、著述の段々惡くなる證據である。それ故、現に四部の法で目録を作つても、四部の中で流別を調べて、昔の學問が官職から出た學問の根本に溯るやうにし、學派の區別を明かにすることが必要であると云ひ、今日四部の區別で分類の仕方が粗雜になつてゐるが、その中に、本の内容を考へるともつと精密な區別が出來ることを論じてゐる。この人は必ずしも書籍を七略の昔に復さうとはせず、やはり支那の學問が昔より學派の區別が明かでなくなつて來た現在の状態に從ひ、四部に分けることは已むを得ないとし、その中で内容を調べることを主張してゐる。
この目録を作るに内容を主とする意味から――目録は單に簿録でないことから――一つの本でも、その内容の幾通りにも見られるものは、その各部各部に重複して名を出すべきであると論じ、これを互著と云つてゐる。同じ本を一箇所以上に載せられぬといふ考へは、目録を單に書籍の帳面として考へるからのことであり、著述の内容・趣意から考へれば、同じ本が何箇所に出てもよい筈で、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略はかかるやり方であつた。それを漢書藝文志に班固が載せた時に皆省いた。これは藝文志に明かに載つてゐることで、省いた本は省いたと書いてある。それで章學誠は、もとの七略は同じ本も内容により何箇所にも載せたと考へ、これこそ眞の學術の流別を重んずる目録學の法なりとした。
互著の法については、鄭樵の目録の作り方をも攻撃してゐる。鄭樵が劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]以來絶えてゐた目録學を興したことは大いに重んじてゐるが、樵の目録學は未だ十分に※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の目録學の本旨を得ないとし、その例として、樵が金石略・圖譜略の如きものを古來始めて作つて居りながら、藝文略の中には石經を載せてあつて、金石略の中には石經を全然載せてゐない。これが※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の互著の法を知らないからであると云つてゐる。この書籍の分
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