とである。近代になつて史通を批評し、その餘計な處を削つた紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]の史通削繁は、この三志を作るべしといふ劉知幾の議論を削つたが、實際は史通以後歴史を作る人がかかる點に注意した證據がある。新唐書の中に宰相世系表があるが、これは氏族志の論から出たものである。又宋代の鄭樵の通志の中に二十略があり、これは各時代の歴史の志に當るものであるが、その中に都邑略・氏族略があり、方物志の代りに昆蟲草木略がある。かくの如く、劉知幾の説は後まで影響があつた。彼はよく人を罵倒する風があり、その批評は酷に過ぎると云はれるが、古來の歴史を通論し、將來の道をも示したのは、よほどの傑作と云はねばならぬ。この史通が出來て、史記以來唐迄の歴史の總論が出來た。この以後歴史は別の時代に入るが、その間に隋書經籍志や史通などにも注意せぬことで、史學史上注意すべきことがある。
 一つは歴史の事實を紀傳とか編年とかの體裁で取扱はずに、類書の體裁で取扱ふことである。これは漢以來この傾向があり、多くは帝王が歴史事實を知るための備忘録として作られた。例へば劉向の説苑・新序・烈女傳等がそれである。こ
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