からそれが多數の人を集めて編纂することになつたことである。史記を書いた時は、司馬談・司馬遷父子二代つづいて史官の職にあり、史記は史官の家の著述として出來た。漢書は班固の父彪が史記に續けて書かうとの考があつて、段々書いて來たことを、班固が續けて書き、更にその足らぬ處を妹の班昭が補つた。それで家に口傳の如きものがあつて、當時の人は、漢書の分らぬ處を班昭に就いて聞いたと云ふ。その後六朝までの史家は、多く父子相續して史學をやつた。梁書・陳書を作つたのは姚察・姚思廉の父子であり、北齊書を作つたのは李徳林・李百藥父子、南北史は李大師・李延壽父子で作つた如きがさうである。かくの如く二代續かぬ家でも、皆一家の著述であつた。故に歴史を書くに皆己れの考があつて、その主張によつて書くので、歴史の論斷に骨を折つた。史記や漢書の如く、編纂者の自敍があつて、著述の趣旨を述べたのは勿論、自敍のないものでも、皆己れ一家の見識があつて書いたのである。それが全く頽れたのは唐の太宗の時の晉書からである。晉書には何の主張もなく、專門の史家のみを集めて作つたのでもなく、多くの學者文人を集めて、歴史を分纂法でやつた。當時出來た隋
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