驚かした。焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]は彼の味方をした。當時焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]は博學な人で、世人の信用があつた爲め、それが李贄が世の信用を得るに力があつた。しかし李贄の説も、當時には殆んど大きな影響を及ぼすには至らなかつた。顧炎武などは彼に大反對であつた。かくて彼の著述は一時世から葬られたが、最近民國になつて、彼の信者が出來て來た。
焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]のしたことには、後世の手本となつたことがある。彼は目録學にも一見識をもち、國史經籍志を書き、これは古く日本でも飜刻せられた。又掌故の學に關しても、彼は王世貞と多少方法を異にし、王世貞のは制度文物に關するが、彼は傳記に關した事實を集めた。清朝になつてその眞似をした著述が多く出た。
なほ明末で注意すべきは、沿革地理の學が出たことであり、學問として名著がある譯ではないが、地圖の作り方に、古代と現代とを對照し、朱と墨とで分けて作ることを考へた。王光魯の閲史約書がそれである。清朝になつて、その風の沿革地圖が多く出來た。
清朝の初めの史學は、全く明末遺老
前へ
次へ
全35ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング