も見られるものとして、南宋時代に通史を紀傳體で書いたものが出來た。鄭樵の通志がそれである。鄭樵は大史論家であつて、歴史は通史でなければならぬ、班固が斷代史を作つたのは歴史の墮落であると云つて之を書いた。紀傳の外に二十略を書き、その中に志の如きものを纏め、年表をも譜と名づけて作つた。彼は史論家としては偉大であるが、通志の出來榮は荷が勝つたと見えて十分でなく、その史論には及ばぬ。通志で最も大切なのは、その序論である。
かくの如く通史が重んぜられたのは、宋代に於ける史學の復活から來たものと云つてよいが、この時に著しいのは、正統論が新たに盛になつたことである。支那は革命の國であつて、色々天子の姓が易るが、時には一統が出來ずに國が分裂することがあり、又一統しても、秦の始皇とか隋の如く、あまりに年數が短く、その制度文物が支那全體に及ばぬ中に亡びたものがある。かかる朝代をも正統と認むべきか否かといふ論である。これには色々の議論があり、正統は必ずしも續かぬでもよく、正統が斷絶する時代があつてもよいとする論があり、又それでは統にならぬから、どれかを正統にすべきであるとし、例へば三國では何れを正統とすべ
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