それさへ全然書かぬ。しかし新唐書を辯護する人もあつて、時代が降るとともに事實が繁雜になる、それを古來からの歴史と同じ位の分量に書かうとすれば、どうしても簡單に書かねばならぬ。すべて簡單に書くことは後代の歴史には必要のことであるといふ人もある。しかし後代の繁雜な事實を強ひて古代と同一分量で書かうとするのが間違ひであるかも知れぬ。ともかく幾らか事柄を簡單に書く爲めに、材料の原文を書き改めることは、非難があるにも拘らず、新唐書が手本となつて、後の歴史は皆これに依つた。これは一つは時代が後になるほど、公文の體が變つて來て、昔のやうに雅でなくなるが、それを昔と同じやうな雅な文にしようとするのが支那の史家の目的であるので、自然書き改める必要がある。殊に新唐書を編した宋祁・歐陽修の二人は古文を好み、古文の中でも韓柳の文を好み、あらゆる材料を皆書きかへて原形をとどめぬやうに書くかと思ふと、韓柳の文であるとなるべくその儘に入れた。この古文を好むことは、韓退之などからしてさうであるやうに、史記・漢書を學ぶことになり、その書き方は、事實を目前に活動させるやうに書くことを主とし、後世の小説の如くする。その爲め
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