生をして、自分の身體の力で藥の力を假らずにやることを考へるやうになつた。それですから古い養生の書などに對する解釋が變つて來ました。昔の藥のことを書いた本でも、元來が外丹の意味であつたものを内丹の意味で解釋するやうになりました。宋の朱子が參同契考異といふ本を書いて居りますが、それは外丹を内丹で解釋した一つの著しい例であります。醫者の治療法でも變りまして、從來は對症療法で、病氣の在る所を藥で攻めて治すといふことでありましたが、宋以來の治療は温補と申しまして、病氣が起つた時は、一定の期間體力を補充して置くといふことを考へました。さうすると自然に體内で病氣に反對する抵抗力が増して來ますから、自然と病氣が治つて行く、さういふことを醫者の方で考へるやうになりました。斯ういふことが總て支那の民族生活があまり長く續いた爲に、反動的に古代生活に還らうとする傾が出來たのであります。
第三 には、又支那の特別の事情で、外の民族の侵入を受けて、一時金や元に支配された時代が出來て來ましたが、それが不思議に支那の民族の内部から出た所の復古的精神と偶然に出合ふ時代が來て、徽宗皇帝が庭園の中に禽獸を放し飼した時に、
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