が、歴史上小野氏といふものはどういふ系圖を引いて居るかと申しますと、孝昭天皇の末孫であつて、それから系圖を引いて小野氏といふものが出來たことになつて居ります。其の先祖の神社が近江國の滋賀郡に小野神社といふものとなつてありまして、そして小野氏が段々に盛になつた時に山を越えて山城の北部まで領分を擴げて來て、小野毛人の墓などが高野の崇道神社の裏に造られるやうになつたのであらうと思ひます。さう考へて見ますと、京都の北部全體が出雲氏の關係であつた時から見ると大分後であると思ふ。小野妹子時代といふものははつきり分つて居る時代でありますが、其の前の出雲氏のことは殆ど記録にも何にもなつて居ないので、唯神社に依つてさういふものがあつたやうに思はれるだけであります。さうすると京都の北部といふものは時代の分らない前に出雲氏の關係のあつた土地であつたが、丁度歴史の始まる時代、即ち聖徳太子の前後頃からして近江の方に根據を有つて居つた小野氏の支配に何時となく入つて、それから後に加茂の關係が生じて來たのであらうと考へられます。上加茂の方は古いかも知れませぬ。鴨建角身命の娘から加茂の別雷神が生れたといふのでありますか
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