が、まだ其の前に關係したものもあると思はれます。一體崇道神社といふものは私にとつては何でもないことでありまして、そんな事を調べる必要は無いのでありますが、それに興味を感ずるやうになりましたのは、崇道神社の山の裏手に小野毛人といふ人の墓があつて、銅板の墓誌が出た所でありますので、それを研究するに就て色々崇道神社なんかのことを考へるやうになつたのであります。そこで又延喜式の神名帳に據りますと、小野神社といふものが其の邊にあつたといふ事であります。小野神社といふものはどうなつたかと申しますと、今日では矢張り高野村の中に加茂|御影《みかげ》社といふものがありまして、崇道神社の南側になつて居りますが、それがさうであつたといふ風に考へられて居ります。それが昔小野神社であつたとしますと其處に小野といふものが關係があつたといふことになるのであります。それでは小野といふものはどういふやうに關係して來たかと申しますと、矢張り近江國の滋賀郡に小野神社と稱するものがありますが、小野毛人といふ人は聖徳太子の時代に隋に入りました妹子の孫に當るといふ人でありまして、即ち聖徳太子時代から小野氏は著しく見はれて居ります
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