平野神社といふものを考へて居るかと申しますと、斯ういふ鐵道院の方で書いた本に出て居ることも好い加減のものであります。それで折角伴信友といふやうな學者が非常な苦心をして研究したのが何の役にも立たない。學問の權威を無視すること夥しいものである。
 それでは伴信友はどういふ風に研究したかと申しますと、平野神社といふものは今木神、久度神、古開神、比※[#「口+羊」、第3水準1−15−1]神、斯う四つの神樣となつて居ります。鐵道院の神詣でには何の神樣か分らないといふことになつて居ります。伴信友の説では是は一體平野神社といふものは桓武天皇樣が平安京を開かれた時に此の平安京へ持つて來られたものであるとしてある。桓武天皇の母方の家といふものは、百濟の王の末孫であります。百濟の聖明王は日本へ佛教を欽明朝の時に送つて寄越した王であります。此の王の末孫であります。それで此の今木神等は百濟の王家の神樣と考へられたのであります。此の今木神といふのは即ち聖明王だと考へた、久度神、古開神といふのは何だか分らない、兎に角久度神社といふものは大和の龍田の附近にあつたので一緒に來た。古開神といふのは矢張り外國から來た家柄
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