れに就て偶然思ひ付いたことを述べて見たいと思ふのであります。
 其の一つは外國から來た神のことであります。これは前から研究した人があります。伴信友の蕃神考、是は京都の平野神社の研究、即ち是は今日では國書刊行會などで版になつて居りますから御覽になつた方もありませうが、之に就て思ひ付いたことがあります。
 所が私は能く申しますが、國學、例へば神社の研究にしても、古代の研究にしても、國學といふものは明治以前の方が大分發達して居ります。明治以後は頓と發達しませぬ。神社のことでも明治以前の方が大分微に入つて研究しました。其の後明治以後になつては頓とさういふ方の人が餘り研究をしませぬので、どうかすると進歩しないのみならず、色々書いたことが皆後戻りをして居る。平野神社なども同樣でありまして、平野神社の伴信友の研究といふものは餘程良い頭で研究したものであります。非常に感服すべき所のものであります。今日平野神社で其の祭神が如何なるものかといふことに就て考へて居ることは信友の考へたよりも遙かに退歩して居るではないかと思ふ。平野神社に就て研究したのではありませぬが古事類苑といふ大きな本があります。あれに官國
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