いったので、はじめて人が気がついて驚いたのである。そこで云われるままに、守朝は父の傷あとをよく見て、
「まことに驚き入ったことでございます。しかし仰せによってよく見ますと胸先きの処にまろきもがあるようでございます」
 といったので、為守は手を入れて引ききって投げ捨てて、
「ああこれが残っていたから死にきれなかったのだろう」
 人々は驚きあわてて涙を流さぬものはない。けれども当人は尚少しの痛みもなく念仏をし続けていたが、七日経ってもまだ何ともない。「これはうがい[#「うがい」に傍点]の水が通うからだろう」といってうがいを止めて塗香を使ったが気力が更に衰えない。やがて傷も治ってしまった。その後は時々行水をしたそうである。かくて正月一日になっても死なないから法然の手紙を取り出して読み続けていた。正月十三日の夢に、来る十五日|午《うま》の刻には迎えに行くといって法然が告げる夢を見て、こんどこそはといって喜びの涙を流した。その時に上人から貰った袈裟をかけ、念珠を持ちて、西に向って端座合掌、高声念仏午の正中に安々と息が絶えた。腹を切ってから水漿《のみもの》を断って五十七日の間気力が常の如くして痛むところなく、ついで往生をとげたということは信じ難い程不思議のことであった。自害往生、焼身往生、入水《じゅすい》往生、断食往生等はその門徒に於ても誡め置かれたことであり、余人の行うべき行ではないが、信心の力の奇特は思い見るべきである。

       二十九

 比叡山西塔の南谷に鐘下房少輔《しょうげぼうしょうゆう》という頭脳のよい僧侶があったが、弟子の稚子《ちご》に死なれて眼前の無常に驚き、三十六の年遁世して法然の弟子となり、成覚房幸西といったが、浄土の法門をもと習った天台宗に引き入れて、迹門《しゃくもん》の弥陀《みだ》、本門の弥陀ということを立てて、十劫正覚《じゅうこうしょうがく》というのは迹門の弥陀のこと、本門の弥陀は無始本覚《むしほんがく》の如来であるが故に、われ等が備うるところの仏性と全く違ったところはない。この謂《いわ》れをきく一念だけでよろしい。多念の数遍の念仏は甚《はなは》だ無益のことだといって自立して「一念義」というのを立てた。法然これを聞いて、これは善導和尚の心にも背いている。甚だよろしくないといって制しおさえたけれども聞かないで、尚この一念義を主張したから法然は幸西を我が弟子に非《あら》ずとして擯出《ひんしゅつ》した。
 兵部卿三位基親卿は深く法然勧進の旨を信じて、毎日五万遍の数遍、怠りなかったが、「一念義」の幸西がそれを非難して来たものだから、幸西といろいろ問答をしてその義と自分の考えとを記して法然の処へ問うて来た。その中に、
「念仏者は女犯《にょぼん》はばかるべからずと申す者もあるが、善導は眼をあげて女人を見るべからずと迄云われて居るに――ということ。それから自分が五万遍を唱えていると、或人が本願を信ずる人は一念である。そうすれば五万遍は無益である。つまり本願を信ぜないことになる。わしはそれに答えて、では念仏一声の外に百遍乃至万遍は本願を信じないのだという文があるか。その人が云う。自力では往生が叶わない。ただ本願を信じてから後は念仏の数は無益であると。わしは又云う。自力往生というのは念仏の他の雑行をもって願いをたてるというからそこで自力といわれるのである。従って善導の疏《しょ》には上尽百年《じょうじんひゃくねん》。下至一日七日一心専念《げしいちじつしちじついっしんせんねん》。弥陀名号《みだみょうごう》。定得往生必無疑《じょうとくおうじょうしつむぎ》とあって百年念仏すべしとある。又法然上人も七万遍の念仏を唱えしめられている。わしも法然上人のお弟子の一分である。依って数多く唱えようと思うのだ。仏の恩を報ずるのだ」と。
 法然はその手紙を見て返事を書いて基親の信仰をほめ、
「深く本願を信ずる者は破戒も省るに足らないというようなことは又お尋ねになるには及ばないこと。一念義のことは念仏の天魔、狂言だ」といって深くとりあげられなかった。
 この成覚房の弟子達が、越後の国へ行って、一念義を立てたのを法然の弟子の光明房というのが心得ぬことに思って、それ等の連中の訪問を記して法然の処へ訴えて来たが、法然はそれにも返事を書いて、
「一念往生の義は京中にも略《ほぼ》はやっているが、言語道断のことで、まことに問答にも及ばないものだ」といいながらよく事理を細かに尽し、「凡《およ》そかくのごとき人は、附仏法《ふぶっぽう》の外道《げどう》なり。師子のなかの虫なり。又うたごうらくは、天魔波旬《てんまはじゅん》のために、精気をうばわるるの輩。もろもろの往生の人をさまたげんとする歟《か》、尤《もっと》もあやしむべし。ふかくおそるべきものなり。毎事筆端につくしがたし」とまで云って、右の光明房の手紙に就て法然は、「一念義|停止《ちょうじ》の起請文」をまで定めて世に示した。その文中には「懈怠無慚《けたいむざん》の業をすすめて、捨戒還俗《しゃかいげんぞく》の義をしめす」と憤り、或は「いずれの法か、行なくして証をうるや」と歎き、最後に承元三年六月十九日沙門源空と署名している。

       三十

 法然の師範であった功徳院の肥後|阿闍梨《あじゃり》皇円は、叡山杉生法橋皇覚の弟子で、顕密の碩才であったが、或時つらつら思うよう、「自分の機分ではなかなか生死を離れて成仏することは覚束ない。いろいろ生れ更って見ても仏法を忘れてしまい、人身を受けてもなお二仏の中間にいて生死を離れることが出来ない。仕方がないから長命をして慈尊の出世まで待つ外はない。命の長いものは蛇に過ぎたものはないということだから、わしは大蛇になろう。但し蛇になっても大海に棲むと金翅鳥《こんじちょう》という奴に捕えられる怖れがあるから池に棲むことにしよう」といって願を立てて遠江の国笠原庄の、さくらの池という処へ身を沈めてしまった。静かなる夜は池に振鈴の音が聞えるということである。
 法然がそのことについて言うよう。
「智恵があって、生死の出で難いことを知り、道心があって慈尊に会わんことを願うのは、殊勝のことのようであるが、よしなき畜生の趣《しゅ》を感ずることは浅ましいことである。これは浄土の法門を知らないからのことである。わしがもしその時分にこの法を発見していたならば、信不信を省みずお授け申したものを。極楽に往生した後は十方の国土を心に任せて経行《きょうぎょう》し、一切の諸仏思うに従って供養が出来る。なにもそう久しく穢土《えど》にいなければならないという筈のものではないのに、彼の阿闍梨ははるか後の世に仏のお出ましを待って現在に救わる道あるを知らずに池に棲み給うとは、おいたわしいことじゃ」
 妙覚寺に妙心房といって評判の高い僧があった。道心が深いということで、寺門を出でず、念仏を行ずる有様は非凡で、帰依する人も盛んにあったが、五十歳ばかりで亡くなった。その時の臨終の有様がさんざんであったから人々がそれをあやしんで、
「妙覚寺の聖人でさえもあの通りの有様で往生が出来ない。まして外の人をや」
 といいはやした。法然がそれを聞いて、
「さあ、それは本物ではあるまい。虚仮《こけ》の行者だろう」といった。
 その後四十九日の仏事に、法然が請われて、唱導に行ったが、その時妙心房の弟子が衣裳箱をとり出して、
「これは私のお師匠様が、年頃のお持物でございましたが」
 といって法然の前へお布施として差出した。その箱を開かせて見ると、布の衣袴の尋常なると、布の七条の袈裟、ならびに十二門の戒儀をふかくおさめていた。法然がそれを見て、「それそれ、日頃源空が言ったことが違わない。この聖《ひじり》は由々しき虚仮の人であった。この持物を見ると、徳たけて人に尊ばれて、戒師になろうと思う心で行いをすましていたのだ」といったから、人が成程と分ったそうである。
 治承四年の十二月二十八日、本三位中将|重衡《しげひら》は、父清盛の命によって南都を攻め、東大寺の大伽藍《だいがらん》を焼いて了った。その後元暦元年二月七日、一ノ谷の合戦に生捕られて都へ上り、大路をわたされたり様々の憂き目を見たが、法然上人に頼んで後生菩提のことをお聴きしたいという願いが切であったから法然は対面して、戒などを授けられ、念仏のことを委《くわ》しく導道した。重衡が、
「この度生きながら、捕われたのは今一度上人にお目にかかる為でありました」と限りなく喜んで受戒のお布施のつもりで、双紙箱を取り出して、法然の前に差置いて、
「御用になるような品ではありませんが、お眼近い処にお置き下さって、一つは重衡がかたみとも御思い出し給わり取りわけて回向《えこう》をお願いいたします」
 法然はその志に感じてそれを受けて立ち出でた。
 重衡によって焼かれた東大寺を造営の為め、大勧進の沙汰があったが、学徳名望共に法然上人の右に出ずる者が無いというような理由で、後白河法皇から、右大弁行隆朝臣をお使として、この度の大勧進職たるべき御内意があった時、法然は、
「山門の交衆《きょうしゅ》をのがれて林泉のうちに幽かに栖《す》んでいることは静かに仏道を修し、偏に仏道を行せんがためでございます。若《も》し勧進の職を承るならば、劇務万端のために修行念仏の本意に背くことになりますから、どうぞこの儀は御免を願い度うございます」
 とその辞意堅固なるを見て、行隆朝臣も何ともしようがなく、このことを奏上したところ、
「では門徒のうちに然るべき器量の者があらば申出るように」
 そこで醍醐の俊乗房重源を推挙して、大勧進の職に補せられた。重源はやがてその使命を果した。法然は重衡卿から贈られた鏡を結縁《けちえん》のために贈り遣わしたということである。
 寿永元暦の頃の源平の乱によって命を落したものの供養をするといって俊乗房が興福寺、東大寺をはじめ、貴賤道俗をすすめて七日の大念仏を修した時、その頃までは人がまだ念仏のことを知らなかったから、俊乗房がこのことを歎いて、建久二年の頃法然を請《しょう》じて大仏殿のまだ半作であった軒の下で観経《かんぎょう》の曼陀羅《まんだら》、浄土五祖の姿を供養し、浄土の三部経を講じて貰うことになったが、南都の三論法相の碩学が多く集った中に大衆二百余人各々肌に腹巻を着て高座の側に列んでいて、自宗の義を問いかけて、誤りがあらば耻辱を与えてやろうと仕度をしていたが、法然はまず三論法相の深義を述べて次ぎに浄土一宗のこと、末代の凡夫出離の要法は、口称念仏《くしょうねんぶつ》にしくものはない、ということを説いた処が二百余人の大衆よりはじめて随喜|渇仰《かつごう》極まりなく、中には東大寺の一和尚、観明房の已講《いこう》理真は殊に涙にむせんで、
「こうして八十の年まで長生きをしたのは偏にこのことを聴かんが為であった」といって悦んだ。
 その序に天台円頓の十戒を解説したが、叡山は大乗戒、この寺は小乗戒と述べたので大衆が動揺したけれども、古老が申しなだめることがあって無事に済んだ。
 法然は和歌を作ることを好んではやらなかったけれども、我国の風俗に従って、法門に事よせては時々和歌を作られたこともある。それを門弟が記し伝えたり、或は死んだ後に世間へ披露されたもののうちに、
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   春
さへられぬ光もあるをおしなべて
  へだてがほなるあさがすみかな
   夏
われはただほとけにいつかあをひぐさ
  こころのつまにかけぬ日ぞなき
   秋
阿弥陀仏にそむる心の色にいでば
  秋の梢のたぐひならまし
   冬
雪のうちに仏の御名を唱れば
  つもれるつみぞやがてきえぬる
   逢[#二]仏法[#一]捨[#二]身命[#一]と云へる事を
かりそめの色のゆかりの恋にだに
 あふには身をもをしみやはする
  勝尾寺にて
柴の戸にあけくれかかる白雲を
  いつむらさきの色にみなさむ
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極楽往生の行業には余の行をさしおきてただ本願の念仏を
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