期の時に紫雲が棚引く等の様々の奇瑞が伝えられている。
 西明寺の禅門は武門の賢哲、柳営の指南として重き地位の人であった。若い時分は常に小倉の草庵へ訪ねて念仏の安心のことなどを尋ねられた。寛元年間に使を立てて申越される旨には、
「わしも年頃念仏の行者として西方を願う心はねんごろである。栗の木とは西の木と書く。西方の行人としては丁度おもしろい名であるから、多年この杖を持っていたが、今は老体で余り出歩きも出来ないから、この杖をあなたに進ぜます。これを持って浄土へおいでなさいまし」
 といって栗の木の杖を送り越して来たから、その返しのおくに、
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老らくのゆくすゑかねておもふには
  つくづくうれし西の木の杖
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 そうして弘長二年の頃法然の孫弟子の敬西房《きょうさいぼう》という者が(これは法蓮房の弟子)関東へ下る時に、法然の伝《つて》を持たせてやった処、数日それを読んで、法然との間に手紙の往復があったが、その翌年十一月二十二日に臨終正念にして端座合掌の往生をとげられたというが、その往生際は、唐衣《からぎぬ》を着て、袈裟《けさ》をかけて西の方に阿弥陀仏を掛け、椅子に上って威儀少しも乱れなかったということである。

       二十七

 武蔵国の御家人、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》は平家追討には武勇の名かくれなかった人であるが、後、将軍頼朝を怨《うら》むことあって出家をとげ、蓮生と云うたが、まず聖覚法印の処へ行って、後生菩提のことを尋ねた処が、
「左様のことは法然上人にお尋ねなさい」
 といわれたので、法然の庵室へ出かけて行って、上人から、
「ただ念仏さえ申せば往生する。別の様はない」
 といわれたので、そこでさめざめと泣き出して了《しま》った。法然もあきれて、暫くは言葉も出なかったが、やがて、
「何事に泣きなさるのだ」
 と尋ねられたので、
 熊谷「貴様のような罪深い奴は手足をも切り、命をも捨ててこそ、後生は助かるのだ、とでも仰せられるのかと思って居りました処が、ただ念仏さえすれば救われると、易々《やすやす》と仰せられたので、あんまり嬉しくて泣いてしまいました」
 という言葉が如何にも真実に後生を恐れる殊勝者と見えたので、法然は懇《ねんご》ろに念仏往生、本願正意《ほんがんしょうい》の安心を授けた処二つなき専修の行者になってしまった。
 或時法然が月輪殿へまいった処、熊谷入道がお伴をして行った。法然はこの荒っぽい坂東武者を連れて行き度くはなかったのだけれども、連れて行かなければまた文句が煩さいと思って、何とも云わないで行くと、のさのさ後をついて月輪殿迄やって来て、沓《くつ》ぬぎへ出て、縁に手をかけて寄りかかって待っていた。程なく奥の方で法然の談義の声が、かすかに聞えたから、熊谷入道が大きな声で、
「ああ、ああ、穢土《えど》という処ほどくやしい処はないワイ。関白殿の御殿だとやらで、おれ達はお談義が聞かれないのだ。極楽へ行ったらこんな差別はなかろう」
 といい出したのが、奥の方の関白の耳に入って、
「あれは何者だ」
 ととがめられた。法然が、
「熊谷入道といって、武蔵の国から罷《まか》り上ったくせ者でございますが、伴に推参してやって来ました」
 と答えたので、関白が、優しく、
「召せ」
 といって使をやって熊谷にこちらへ来てお談義を聴いてもよいという旨を伝えると、一言のあいさつも云わず、ずかずかと入り込んで、近く大床にわだかまって、法談を聞いていた熊谷の態度に並居る高貴の面々が耳目を驚かせたということがある。
 この熊谷は念仏往生の信心を堅めた上はどうしても上品上生《じょうぼんじょうしょう》の往生をとげなければおかないといって願をたてた。そして、いつも不背西方《ふはいさいほう》の文を深く信じ、かりそめにも西の方へ背を向けなかった。京から関東へ下る時なども、鞍を逆さに置かせて、馬にも逆さに乗って西へ向いながら東へ下るのであった。そして歌を詠んで云うことには、
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浄土にもがうのものとやさたすらん
  にしにむかひてうしろみせねば
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 すべてが熊谷一流の信心堅固であったから、法然もそれをたのもしく思って、坂東の阿弥陀ほとけという名で呼ばれ、目をかけて教えたり、手紙で細々とさとされたりしていたが、そういう中に於ても持ち前の荒武者は至る処ころがり出して、なにか道中で悪い奴などが出ると或は馬船をかずけたり或はほだしを打ったり、或は縛ったり、或は筒をかけなどしていましめておいた。そういった了見かたで是非ともおれは上品上生の往生をしなければおかぬ、というのが専ら評判になり、月輪関白《つきのわかんぱく》なども、わざわざそのことを法然に尋ねている。
 建永元年八月、蓮生は、
「わしは明年の二月八日往生する。もしかく申すことに不審があらば、来て見るがいいぞ」
 ということを武蔵国村岡の市に札を立てさせた。それを伝え聞く輩が遠近《おちこち》より熊谷の処へ何千何万という程押しかけて来たが、愈々その日になると、蓮生は未明に沐浴して、礼盤に上って、高声念仏の勢たとうるにものなく、見物の者が眼を澄まして眺めていると、暫くあって、念仏を止め眼を開いて、
「さあ皆の者、今日の往生は少し延期だ、来《きた》る九月四日には必ず往生をして見せるから、その日になってやっておいで」
 見物の者|呆《あき》れて、あざけりながら帰って行く。妻子眷属は世間へ対して面目ないことだと、歎いたが、当人は一向平気で、
「なあに、阿弥陀如来のお告げで、延ばしたのだ。自分の了見ではない。九月には間違いないよ」
 といっていたが、やがて春夏も過ぎ、八月の末になって少し病気であったが、九月一日空に音楽を聞いて後更に苦痛が無くなって身心安楽であった。四日の後夜に沐浴して漸くまたまた臨終の用意をする。遠近の人集まること、また集まること、市の立った様である。やがて巳《み》の刻になると、かねて法然から賜わった弥陀来迎の三尊|化仏菩薩《けぶつぼさつ》の形像を一軸にした秘蔵の品を掛け、その前へ端座合掌し、高声念仏《こうじょうねんぶつ》甚だ盛んで、やがてこんどは相違なく、その念仏の声が止まると一緒に息が止まったが、その時口から五六寸ばかりの光が出て紫の雲がたなびき、「音楽」が聞え、さまざまの奇瑞があって五日の卯《う》の時まで続き、翌日入棺の時もさまざま霊異があって、成程これならば上品上生の往生疑いなかろうと皆がいった。

       二十八

 武蔵国の御家人、津戸三郎為守《つのとのさぶろうためもり》は、生年十八歳の時、治承四年八月に頼朝石橋山の合戦の時、武蔵の国から走《は》せまいり、安房《あわ》の国へも従い、その後所々の合戦に名を挙げたが、建久六年二月、東大寺供養の為に頼朝が上洛の時、為守は、三十三歳でお伴をして行ったが、三月四日に京都に着き、その月の二十一日に法然の庵堂へ参って、合戦度々の罪を懺悔《さんげ》し、念仏往生の道を聴いてから法然の信者となり、本国に下ってからも念仏の行、怠りなかったが、或人が、
「熊谷入道や、津戸三郎は無学無智の坂東の荒武者で、他の学問や修行を教えたって仕方がないと見たから、そこで法然様が念仏ばかりでいいと仰言《おっしゃ》ったのだ。もう少し智恵のある人間に向っては法然様だって何も念仏に限るとはおっしゃりますまい」
 というのを、為守が聞いて腹を立てて、早速法然へ手紙でそのことの不審を訂《ただ》してやると、法然は、決してそんなことがある筈はない。念仏は一切衆生の為で、無智だの、有智だの、有罪無罪、善人悪人、持戒破戒等の区別があるべきものでないということを懇々と諭されている。
 その後為守は法然の門弟|浄勝房《じょうしょうぼう》、唯願房《ゆいがんぼう》等の坊さん達を関東の方へ頼んで来て、それを先達として不断念仏をはじめ行い出した時、時の征夷将軍(右大臣実朝)に讒言《ざんげん》する者があって、
「津戸為守は、専修念仏を起して聖道の他の諸宗派を謗《そし》っている、不都合千万だ」そこで領守が召して糺問されるというような沙汰《さた》があったから、為守は驚いて、
「もし、そういう事がありましたら、どういう返事をしたらよいものか、むずかしそうな返答の言葉と、たとえの文句などを一つ仮名まじり文に書いて、くわしく教えていただきたい」
 ということを飛脚によって京都の法然の処へ尋ねて来た。そこで法然の返事には矢張り細々とその応答の仕方と浄土の要旨を教え越されている。
 そこで翌年四月二十五日に、信濃前司行光《しなののぜんじゆきみつ》(その時が山城民部大夫)の奉行で、津戸三郎の処へ御教書が下った。為守は、浄勝房、唯願房等の念仏者を連れて鎌倉の法華堂の前の二棟の御所という南向きの広廂《ひろびさし》に参っていると、津戸の郷内へ念仏所を建てて念仏を広めているということにつき、だんだんとお尋ねを蒙ったが、津戸三郎はかねてから法然より貰った手紙を頭に入れて、十分の試験勉強をしていたことだから無事に疑いが晴れ、その同行の念仏者も、専門の上から申開きが立派に立ったので、それからは専修念仏の行に於ては仔細あるべからずとお許しが出た。愈々《いよいよ》念仏の行に怠りがなかったから、建保七年の正月右大臣が逝《な》くなった時に、二位尼の計らいで、遺骨を為守の処へ渡されたので、偏《ひとえ》に右大臣実朝の菩提をとむらったということである。
 為守はこの通り二心なき念仏の信者であったが、同じことならば早く出家の本意をとげたいものだと思ったが、関東でお許しが出ないから、在俗の形ながら、法名を継ぎ戒を受け、袈裟《けさ》をたもちたいということを法然に頼んで来たから法然もその志をあわれんで、禁戒《きんかい》の旨を記してやり、袈裟もやり、尊願という法名も附けてやった。その後法然所持の念珠を所望する程に熱心であったが、愈々実朝が亡くなった時赦しが出て出家をとげ、法然からつけて貰った尊願という法名をその儘に相継していた。
 法然が亡くなって後、日に日に極楽が恋しくなり、自分も年をとるし、この世が厭《いと》わしくてたまらず、法然からの手紙をとり出して見ては、早く私をもお迎え下さいましといったけれども、なかなか丈夫で死ねないで空しく年月を送る心持に堪えられなかったから、仁治三年十月二十八日から浄勝房以下の僧達を集めて、三七日《みなぬか》の如法念仏をはじめ十一月十八日に結願《けちがん》の夜半に道場でもって高声念仏し、それから自分で自分の腹を切って五臓六腑を取り出し、練大口《ねりおおぐち》に包んで、そっとうしろの川へ捨てさせた。夜半の事だから誰れも知っているものはない。そして置いて僧達に向って、
「斯様《かよう》に出家をして、家に籠《こも》って大臣殿の御菩提をとぶらい申すにつけても、主君のお名残《なごり》も恋しく、師の法然上人も極楽できっと待っているとの仰せの程も思い合わされます。釈尊も八十で御入寂《ごにゅうじゃく》になり、法然上人も八十でもう御往生、わしもこれで満八十じゃ。八十を上下にした第十八は念仏往生の願いの数であり、今日は又十八日に当る。如法念仏の結願に当って、今日往生したならまことに殊勝の往生が出来るであろう」
 と物語った。聴いている人は、為守にその用意のあることを知らないから、何気なく、
「左様でござる。今日のような日に往生が出来たら芽出たいことにちがいありません」といった。
 ところが、その夜もあけて、十九日になったけれども、腹を切って五臓六腑を捨ててしまった尊願が死にも、往生もしない、立派に生きている。しかも苦痛も何もなく、やがて死ぬような心持さえもしないようだから、子息の民部大夫守朝を呼んで、切った腹を引きあけて見せて、
「この通り往生の心で腹を切ったが、死にもせねば苦痛もない。五臓六腑を取り捨ててしまったが、たぶんまだ、まろきも[#「まろきも」に傍点]というものが残って、それで死に切れないものだろうと思う。よく見てくれ」
 と
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