る》などは。いまれたることにて候えば。やまいなどかぎりになりては。くうべきものにては候わねども。当時きとしぬばかりは候わぬ病の。月日つもり。苦痛もしのびがたく候わんには。ゆるされ候なんと覚《おぼ》え候。御身おだしくて。念仏申さんと思食して。御療治候べし。命おしむは往生のさわりにて候。病ばかりをば。療治はゆるされ候なんと覚え候」
 鎮西から上って来た或る一人の修行者が法然の庵室へまいって、まだ上人に見参しない先きに、お弟子に向って、
「称名の時に仏様の御相好《おそうごう》に心をかけることはどうでございましょうか」
 と尋ねた処が、お弟子が、
「それは芽出度いことであろう」
 と独断で答えたのを法然が道場にあって聞いていたが、明り障子を引きあけて、
「源空はそうは思わない。ただ若我成仏《にゃくがじょうぶつ》。十方衆生《じっぽうしゅじょう》。称我名号《しょうがみょうごう》。下至十声《げしじっしょう》。若不生者《にゃくふしょうしゃ》。不取正覚《ふしゅしょうがく》。彼仏今現《ひぶつこんげん》。在世成仏《ざいせじょうぶつ》。当知本誓《とうちほんぜい》。重願不虚《じゅうがんふこ》。衆生称念必得往生《しゅじょうしょうねんひっとくおうじょう》と思うばかりだ。われ等が分で如何に観じたとても本当の姿が拝めるか。ただ深く本願を頼んで口に名号を称えるだけじゃ。それがいつわりのない行であるぞ」といわれた。

       二十四

 法然の曰《いわ》く、「阿弥陀経はただ念仏往生のみを説くと心得てはならぬ。文に隠顕はあるけれど凡《およそ》[#ルビの「およそ」は底本では「おそよ」]の処は四十八願を悉《ことごと》く説かれてある訳である」
 法然が云う、「諸宗の祖師はみんな極楽に生れている」
 或時聖光房、法力房、安楽房等の弟子達と往生の話をしていた。その時、
「往生は念仏を信ずると信ぜざるとによるので、罪悪のあるとないとによらない。既に凡夫の往生を許す上は何ぞ妄念の有無を嫌うべきや」
 そこで安楽房が問うて云うのに、
「虚仮《こけ》の者は往生しないというのはどのように心得たらよろしゅうございますか」
 法然が答える。
「虚仮というのは事更に飾る手合いをいうのである。自然に虚仮であるぶんには往生の障《さわ》りにはならない」
 是等の問答のうちお弟子はみんな落涙をして感心したそうである。
 元久二年正月二十一日世間並の尼女房達が沢山上人の処へ集って来て戒を受け、教えを聴こうとした。法然はその願い通りに聖道《しょうどう》の難行なること、浄土の修し易きことを語り聴かせて彼等を随喜させて帰した。
 法性寺左京大夫信実朝臣の伯母であった女房が、道を尋ねて来たので、法然はそれに返事を書いている。その中に、
「三心と申し候も。ふさねて申す時は。ただ一の願心にて候なり。そのねがう心の。いつわらず。かざらぬ方をば。至誠心《しじょうしん》と申候。この心の実《まこと》にて。念仏すれば臨終に来迎《らいごう》すという事を。一心もうたがわぬ方を。深心《じんしん》とは申し候。このうえわが身もかの土《つち》へむまれんとおもい。行業《ぎょうごう》をも往生のためとむくるを。廻向心《えこうしん》とは申し候なり。この故にねがう心いつわらずして。げに往生せんと思い候えば。おのずから。三心は具足する事にて候なり」
 伊豆国|走湯山《はしりゆさん》に、妙真という尼があった。法華の持者真言の行人であったが、事のたよりに上洛の時法然の教えを受けてそれから専修念仏に転じたが誰れにも語らず、同行の尼一人に示していた。或時明日の申《さる》の刻に往生するからといっていたが、間違いなくその時刻に端座合掌し高声念仏して往生をとげた。様々の奇瑞があって人の耳目を驚かしたそうである。

       二十五

 これまで京洛を中心として法然の教化が上下に普かったが、それから鎌倉の二位尼(頼朝の妻政子)の帰依《きえ》が深く、蓮上房尊覚という者を使として念仏往生のことを尋ね越されたから、法然はそれにも返事を書いている。その中に、
「強《あなが》ちに信ぜざらん人を。御すすめ候べからず。仏もかない給わざる事なり」
「念仏の行は。もとより行住座臥時処諸縁をきらわず。身口《しんく》の不浄をきらわぬ行にて易行往生《えぎょうおうじょう》と申し候なり。ただし心をきよくして申すを。第一の行と申し候なり。人をも左様に御すすめ候べし。ゆめゆめこの御心は。いよいよつよくならせ給え候べし」
 上野国の御家人、大胡《おおご》小四郎隆義は在京の時吉水の禅室に参じて法然の教えをうけて念仏の信者となったが、国へ下ってから不審のことは法然給仕のお弟子、渋谷七郎入道道遍を通じて法然の教えを受けていたが、法然は細かに返事の消息を遣わされている。隆義の子太郎実秀も父の後を継いで法然に不審の事を小屋原蓮性という者を使者として尋ねて来た時も、法然は真観房に筆を執らせて返事を与えている。
「念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆえなり。本願と云うは。阿弥陀仏のいまだ仏にならせ給わざりし昔。法蔵菩薩《ほうぞうぼさつ》と申ししいにしえ。仏の国土をきよめ。衆生を成就《じょうじゅ》せんがために。世自在王如来《せじざいおうにょらい》と申す仏の御前にして。四十八願をおこし給いしその中に。一切衆生のために。一の願をおこし給えり。これを念仏往生の本願と申す也」
 この消息は細々と経説を挙げてかなり長いものになっているが、実秀は法然からこの消息を恭敬《くぎょう》頂戴して一向に念仏し、寛元四年往生の時矢張り奇瑞があったという。実秀の妻室も深くこの消息の教えを信受してよき往生の素懐を遂げたという。
 武蔵国《むさしのくに》那珂郡《なかごおり》の住人弥次郎入道(実名不詳)という人も上人の教化を蒙《こうむ》って一向念仏の行人となったが矢張り上人から手紙を貰って秘蔵していた。或時病気でなやんでいたが、夢に墨染の衣を着た坊さんが来て、青白二茎の蓮華をもって来て往生の時と極楽の下品《げぼん》から上品《じょうぼん》に進むというようなことを教えて行ったという奇瑞がある。

       二十六

 武蔵国の御家人|猪俣党《いのまたとう》に甘糟太郎忠綱《あまかすのたろうただつな》という侍は深く法然に帰依した念仏の行者であった。山門の輩が蜂起して日吉《ひえ》八王子の社壇を城廓として乱を起した時、忠綱は勅命によってそれを征伐に向った。時は建久三年十一月十五日であったが、甘糟忠綱は出陣の命を受くると共に法然の許に走《は》せ参じ、
「拙者は武勇の家に生れて戦《いくさ》をしなければなりません。戦をすれば悪心が盛んになり願念が衰えます。願念を主とすれば却って敵の為に捕虜になって永く臆病者の名を残し家の名を汚すでしょう。何れを何れとしていいか分りません。弓矢の家業も捨てず、往生の願いもとぐる道があらば願わくは一言を承りたいものでございます」
 法然答うるよう、
「弥陀の本願というものは、機《き》の善悪を云うのではない。行いの多少を論ずるのではない。身の浄不浄を選ぶのでもない。時と処と縁とによらず、罪人は罪人ながら名号を称えて往生するというところが本願の不思議というものだ。弓箭の家に生れたものが仮令《たとい》軍陣に戦い、命を失うとも念仏さえすれば本願に乗じ、来迎にあずからんことは疑いないことじゃ」
 と細かに説いて聞かせられて忠綱は大いに喜び、
「それで悟りがひらけました。忠綱が往生は今日定まりました」
 と喜んで法然から袈裟《けさ》を貰い、鎧《よろい》の下にかけて、それより八王子の城に向い、命を捨てる覚悟で戦ったが、太刀が打ち折れて自分は重傷を負うたものだから、もうこれまでと刀を捨てて合掌し、高声に念仏をして敵の手に身を任せてしまった。その時紫の雲が夥《おびただ》しくあたりに棚引いたそうである。その時法然は叡山の方に紫の雲が棚引いたという報せを聞いて、
「ああそれでは甘糟が往生したな」
 といわれた。甘糟が国に残して置いた妻室が夢に忠綱が極楽往生をとげたという告げを聞いて驚いて国から飛脚をたてたが、京都からの使者と途中で行き会うて忠綱が戦場最期の有様を物語ったということである。
 宇都宮弥三郎頼綱が家の子郎党を従えて、済々《せいせい》として武蔵国を通ると、熊谷の入道直実に行き会うた。直実がそれを見て、
「すばらしい威勢だなあ。しかし、いくら家来を大勢連れたからとて、無常の鬼という奴が来れば防ぐことは出来ないで、お前いつ迄もそうして強者顔《つわものがお》をして威張っていたからとて念仏の行者にはかなわないぞ。弥陀如来の本願で念仏するものは悪道に落されず迎えとられるのだ。念仏をすることは一騎当千の強者になるよりも豪《えら》いことだぞ。お前も軍《いく》さ人《びと》なんぞは早く止めて念仏をしろ念仏をしろ」
 といわれたのが頼綱の胆にそみていた。直実の奴うまく侍を卒業しやがったな。おれも負けるものかという気になって、大番勤仕《おおばんきんじ》の為に京都へ上った序《ついで》に、承元二年十一月八日のことであったが、法然を勝尾《かちお》の草庵に訪ねて念仏の教えを受け一向専修の行者になってしまった。
 法然が亡くなった後は善恵房《ぜんえぼう》を頼んでいたが、結縁《けちえん》の為めに四帖の疏の文字読みばかりを受け、遂に出家して実信房蓮生《じっしんぼうれんしょう》と号しその後夢に善光寺の本尊を感得したりなどして承元元年十一月十二日芽出度い往生をとげた。
 上野国の御家人薗田太郎成家は秀郷《ひでさと》将軍九代の孫、薗田次郎成基が嫡男《ちゃくなん》であるが、武勇の道に携わり、射※[#「けものへん+臈のつくり」、第3水準1−87−81]《しゃかつ》を事として罪悪をほしいままにしていたが、正治二年の秋これも大番勤仕の為に京都へ上って来た時、法然の念仏が一代に盛んなことを聞いて何気なく自分も行って見ようという気になって教えを受けた処が、たちまち信心胸に満ち、その年の十月十一日に生年二十八歳で出家してしまって法名を智明《ちみょう》とつけ、法然の手許に六年も給仕をしていたが、元久二年に本国に下って、家の子郎党二十余人を教導して同じく出家させて同行とし、酒長《しゅちょう》の御厨《みくりや》小倉の村に庵室を建てて念仏伝道をしていた。世の人が尊んで小倉上人《おぐらのしょうにん》と称んでいた。なお庵室の西一丁余り隔てて一間四面のお堂を建てて、お堂の妻戸に庵室の戸を開け合せるようにし、仏前の燈明を摂取《しょうじゅ》の光明と思って常に光明遍照《こうみょうへんじょう》の文を唱え、真心を現して発露啼泣《ほつろていきゅう》していた。そこでここを訪れる人々皆感化されて念仏をしない者はなかった。
 或年元日の祝言にこう云うことをはじめた。それは一人の下僧に言い含めて、高らかに曰わせるよう。
「この御庵室にもの申す。西方浄土《さいほうじょうど》からお詣りが遅いから、急いでおいでがあるように阿弥陀仏からのお使いでございます」
 そこで成家が喜んでその僧を客殿へ招き入れ、丁寧にもてなし様々の引出物を与えることにした。これがその後ずっと元日の吉例になっていたということである。
 その辺の山里には鹿が多くいて、作物を荒すので百姓達は田畑に垣を作って防いでいるのを見て成家はわざわざ上田を三丁程作らせて鹿田と名付け、鹿の食物にさせた。
 なお田植唄には念仏を唱えさせることにした。宝治二年の九月に少しからだが悪かった。その時弟の淡路守後基を招きよせて、
「わしはもう老病で遠くはあるまい。対面も今日が限りだろう。お前も罪悪深重の人であるから必ず念仏をして、わしと同じ様に浄土へまいるようになさい。仮令《たとい》鹿鳥を食べる時にも念仏を噛みまぜて申すがよい。たとい敵に向って矢を引くとも念仏を捨ててはならない」
 と教訓した。弟を帰してから後で同族を集めて念仏をし、その翌日十六日に端座合掌して光明遍照の文を誦し、高声念仏一時間ばかり唱えて禅定《ぜんじょう》に入るが如くにして息絶えた。生年七十五。最
前へ 次へ
全15ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング