法然行伝
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)美作《みまさか》
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(例)式部太郎|源《みなもと》の
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(例)以[#二]念仏心[#一]
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一
法然上人は美作《みまさか》の国、久米《くめ》の南条稲岡庄《なんじょういなおかのしょう》の人である。父は久米の押領使《おうりょうし》、漆《うるま》の時国《ときくに》、母は秦氏《はたし》である。子の無いことを歎いて夫婦が心を一つにして仏神に祈りをした。母の秦氏が夢に剃刀《かみそり》を呑むと見て身ごもりをした。父の時国が云うのに、
お前が孕《はら》める処定めてこれは男の子であって一朝の戒師となる程の者に相違ないと。
母の秦氏は心が柔和で、身に苦しみがない。堅く酒肉五辛を断って三宝《さんぽう》に帰する心が深かった。
遂に崇徳院《すとくいん》の御宇長承二年四月七日の午《うま》の正中に母の秦氏悩むことなくして男の子を生んだ。その時紫の雲が天にそびえ、邸のうち、家の西に元が二肢《ふたえだ》あって末が茂り、丈の高い椋《むく》の木があった。そこへ白幡《しらはた》が二旒《ふたなが》れ飛んで来て、その梢《こずえ》に懸った。鈴の音が天に響き、いろいろの光りが日に輝いたが、七日経つと天に昇って了った。見るもの聞く人、不思議の思いをなさないものはなかった。それからその木を両幡《ふたはた》の椋の木と名をつけた。年を経て傾き古くなったけれど、この椋の木は異香が常に薫じ、奇瑞《きずい》が絶ゆることがない。後の人この地を崇《あが》めて誕生寺と名づけ、影堂を造って念仏の道場とした。
生れた処の子供の名を勢至丸《せしまる》とつけた。竹馬の頃から性質が賢く、聖人の様である。ややもすれば西の方の壁に向っている癖《くせ》があった。天台大師の子供の時分の行状によく似ている。
父の時国の先祖をたずねると、仁明天皇《にんみょうてんのう》の御後、西三条右大臣(光公)の後胤式部太郎|源《みなもと》の年《とし》というものが陽明門で蔵人兼高《くろうどかねたか》というものを殺した。その罪に因《よ》って美作の国へ流されたのである。そしてこの国の久米の押領使神戸の大夫漆の元国の娘と結婚して男の子を生ませた。元国には男の子がなかったから、二人の間に出来た外孫をもって自分の子としてその後を嗣《つ》がせる時に源の姓を改めて漆の盛行と名付けた。盛行の子が重俊、重俊の子が国弘、国弘の子が時国という順である。
こういう家柄であったから、時国も田舎に在って自然自分の本性に慢心の心があり稲岡の庄の預り処、明石の源内武者定明を侮ってその政治に従わなかった。この明石の源内武者定明という者は、伯耆守《ほうきのかみ》源長明という者の嫡男で堀川院御在位の時の滝口《たきぐち》の武者であったが、ここの預り処へ廻されて来たものである。時国の方は自分の家柄は父の系図はよし、母方は土着の勢力家であるし、上役とはいえ、明石の源内武者の摂度に従わず面会にも行かなかったから、上役たる定明が深くこれを憎み怨《うら》んでいた。
この怨みが積って保延《ほうえん》七年の二月定明は時国を夜討ちにした。その時に勢至丸は九つであった。隠れて物の隙から見ていると敵の定明が庭に矢をはいで立っていたから勢至丸は小さい矢をもって定明を射た。それが定明の眼の間に当った。定明はそのままこの所を逃げ延びて了った。
父の時国は夜討ちの為に深い傷をうけて死に瀕《ひん》する時、勢至丸に向って云うことには、
お前はこのことから会稽の恥をおもい敵人を怨むようなことがあってはならぬ。これというのも偏《ひとえ》に先きの世の宿業《しゅくごう》である。若し怨恨を結ぶ時にはそのあだ[#「あだ」に傍点]というものは幾世かけて尽きるということのないものだ。そこでお前は早く俗を遁《のが》れ、家を出でて我が菩提《ぼだい》をとむらい、自らの解脱《げだつ》を求めるがよい。
といって端座して西に向い合掌念仏して眠るが如く息が絶えた。
二
一方勢至丸の父の仇定明は、ここを遁《に》げてから隠居して罪を悔い念仏往生の望みを遂げ、その子孫は皆法然上人の余流を受けて浄土門に帰したということである。
さて、この勢至丸の生国に菩提寺という山寺があった。この寺の院主|観覚得業《かんがくとくごう》という人は延暦寺に学んだ者であるが、そこでは望みが遂げ難いと思って、南都に移って、法相《ほっそう》を学んで卒業した。ひさしの得業と称《よ》ばれていたが、これが勢至丸の母の弟であるから、勢至丸には叔父さんに当る。父の遺言もあることであるし、勢至丸はこの叔父さんの処へ行った。学問の性質がよくて、流るる水よりも速やかに、一を聞いて十を悟り、聞くところのこと忘れるということがない。
叔父の観覚は勢至丸の器量を見て如何《いか》にもただ人ではないと思ったから徒《いたず》らに辺鄙《へんぴ》の塵に埋めて置くには忍びない、早く当時学問の権威|比叡山《ひえいざん》に送って本格の修業をさせなければならぬと心仕度をしていた。勢至丸はこの趣きを聞いて、はや故郷に留まる心はなく早く都へ上りたいと憧れている。叔父の観覚はその心を喜んでこの子を連れて母の処に行って、このことを物語ると母は流石《さすが》に人情として、とみに返事も出来ないでいると勢至丸が云う。
「受け難き人身を受けて、会い難き仏教に会う。眼の前の無常を見て夢の中の栄耀《えいよう》を厭《いと》わねばなりません。とりわけて亡き父上の御遺言が耳の底に止まって心のうちに忘れられません。早く都の叡山に登って本当の仏法修業をいたしたいものでござります。母上がこうしておいでの程は御孝養を致さねばなりませぬが、有為を厭い、無為に入るのが真実の報恩であるとの教文もござります。一旦の別離を悲しんで永日の悲歎をお残しなされぬように」
と再三なぐさめの言葉を申した。母もこの理《ことわり》に折れて承諾の言葉を述べたけれども袖に余る悲しみの涙が我が小児の黒髪をうるおした。その悲しみの思いを歌って、
[#ここから2字下げ]
かたみとてはかなき親のとどめてし
この別れさへまた如何にせむ
[#ここで字下げ終わり]
そうしてはじめて比叡の西塔《さいとう》北谷、持宝房源光《じほうぼうげんこう》が許へ勢至丸を遣わされた。その時叔父の観覚の手紙には、
進上、大聖文殊像《だいしょうもんじゅぞう》一体
と、文殊は智恵である。この子が智恵の優れた子であるということを示す為であった。
かくて勢至丸十五歳|近衛院《このえいん》の御宇、久安三年の二月十三日に山陽の道を踏み上って九重の都の巷《ちまた》に上り著いた時、途中時の摂政《せっしょう》であった藤原忠通の行列に行き会ったので、勢至丸は馬から降りて道の傍によけていると、摂政殿が勢至丸を見て車を止められて、
「いずくの人ぞ」
とお尋ねがあった。おそばの者が、
「これは美作《みまさか》の国より出家修業の為に叡山に登るものでございます」と申上げた。摂政殿がそれを見て勢至丸に御礼儀があって、通り過ぎさせられたから、おそばの者が意外の思いをした。摂政殿が後に申されるには、
「今日路次で会った処の子わらべは眼から光りを放っている。如何にもただ者ではないことが分る。そこで礼をしたのじゃ」と云われた。
後に忠通公の息|月輪殿《つきのわどの》が上人に帰依《きえ》深かった因縁もこの物語と思い合わされるものがある。
三
勢至丸は都へ入ってから、まず叔父の観覚得業の手紙を持宝房へ遣《つか》わされると、源光房がその手紙を見て、
「ハテ文殊の像一体とあるが」と不審がると使者が「いえ、文殊菩薩の御像を持参致したわけではござりませぬ。お稚児《ちご》さんを一人連れてまいったのでございます」
そこで源光は早くも、この小児の聡明なることを察して迎えを遣わし、同じ月の十五日に叡山に登った。
叡山の持宝房についたから試みにまず四教義《しきょうぎ》を授けて見ると籤《せん》をさして質問をする。疑う処皆古来の学者たちの論議した処と同じである。まことにただ人ではないと皆が申し合った。この子の器量が同輩に過ぎたる名誉を知って源光は「おれは魯鈍の浅才であるから、この子の教育の任に堪えぬ。然るべき碩学《せきがく》につけてこの宗の奥義を究めさせなければならぬ」といって久安三年四月の八日にこの子を引連れて功徳院肥後|阿闍梨《あじゃり》皇円の許《もと》に入室させた。
この皇円阿闍梨は、粟田関白四代後の三河権守重兼が嫡男であって、少納言資隆|朝臣《あそん》の長兄にあたり、椙生《すぐう》の皇覚|法橋《ほっきょう》の弟であって、当時の叡山の雄才と云われた人である。この皇円阿闍梨はこんど連れてこられた少年の聡敏なることを聞いて驚いて云う。
「さる夜の夢に満月が室に入ると見た。今この法器にあうべき前兆であったわい」
といって悦《よろこ》ばれた。
同じき年の十一月の八日、勢至丸は黒髪を剃《そ》り落し法衣を著し、戒壇院《かいだんいん》で大乗戒を承けた。
或時のこと師範の阿闍梨に向って申されるには、
「既に出家の本意《ほい》を遂げて了いました。今は山林の中へ遁れようと思います」
それを聞いて師の阿闍梨が云われるには、
「仮令《たとい》隠遁の志がありとしても、まず六十巻を読んで後、その本意を遂げるがよかろう」
「まことに仰せの通りでございます。私が山林に行って閑居を願う心は永く名利《みょうり》の望みを止めて静かに仏法を修業しようとの為でございます」
そこで生年十六歳の春、はじめて本書を開き三カ年を終て三大部に亙《わた》り得た。
理解修業、妙理を悟ること師の教えに越えている。阿闍梨は愈々《いよいよ》感歎して、
「この上とも学問を努め、道行を遂げて天晴れ天台の棟梁となりなさい」と期待をかけて激励したけれども、その期待に添うべき返事は更になかった。なおこれ名利の学問であるわいと忽《たちま》ち皇円阿闍梨の許を辞して黒谷《くろだに》の西塔《さいとう》、慈眼房叡空《じげんぼうえいくう》の庵に投じた。これは久安六年九月十二日、法然十八歳の時のことであった。
「幼稚の時分からやや人がましくなりました今日に至るまで、父の遺言が耳に残って忘れられませぬ。私の出家登山は、名利の学問の為めではござりませぬ。永久に隠遁の心を遂げたいが為めでございます」と述べる。
少年にして、早くも出離《しゅつり》の心を起したのは誠にこれ法然道理の聖《ひじり》であると慈眼房叡空は随喜して、法然房と号し、実名は最初の師源光の上の名と叡空の下の字をとって源空と名をつけられた。
こうして法然といい、源空という生涯を通じてのよび名を十八歳の時叡山の西塔黒谷の慈眼房叡空の庵に於てつけられたのである。
この叡空上人は大原の良忍上人《りょうにんしょうにん》の附属《ふぞく》円頓戒相承《えんどんかいそうじょう》の正統であって、瑜伽《ゆが》秘密の法に明かに当代に許された名師であった。
四
かくて法然は黒谷に蟄居《ちっきょ》の後は偏《ひとえ》に名利を捨て一向に出要を求めんと精進した。学問せんが為の学問でなく、確かに生死を離るべき道を求むるが為に学問した。一切経《いっさいきょう》を披《ひら》き閲《けみ》すること数遍に及び、自宗他宗の書物眼に当てないというものはなかった。
或時天台|智者大師《ちしゃだいし》の本意を探り、円頓一実の戒体《かいたい》に就て、師の慈眼房と話をした。慈眼房は、
「心が戒体じゃ」という議論をたてる。法然は、
「性無作《しょうむさ》の仮色《けしき》が戒体でございます」という議論を立て、両々相譲らず、永い間議論をしていた
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