が、慈眼房が腹を立てて、あり合せた木の枕を以て法然に打ちつけたから、法然は師の前を立ち出でて了ったことがある。それから慈眼房は独り考えること数尅《すこく》の後法然の部屋に来て申訳をする旨には、
「お前が云った処がやっぱり天台大師の本意であるわい。一実円戒《いちじつえんかい》の至極であるわい」といわれたことがある。
保元元年、法然二十四の年、叡空上人に暇を乞うて嵯峨《さが》の清涼寺《せいりょうじ》に七日参籠のことがあった。法を求むるの一事を祈る為であった。この寺の本尊、釈迦善逝《しゃかぜんせい》は三国伝来の霊像である。
法然は如何なる大巻の文と雖《いえど》も三遍それを見ると明かになる。諸教の義理をあきらめ、八宗の大意を窺い得てそれぞれの宗派宗派の先達《せんだつ》に会って自分の解釈を述べて見ると何れもそれを印可して、賞美しないものはなかった。
清涼寺の七日の参籠を済せて、それから南都へ下り、法相宗の碩学《せきがく》蔵俊僧都《ぞうしゅんそうず》の処に至って普通の修業者の通りに御対面を申出で、大床にいた処を蔵俊僧都が何と思ったか明り障子をあけて内へ招き入れて対面し、法談に時を移した。宗義に就て不審を挙げられると僧都にも返答の出来ないようなことがあった。それを法然が試みに自分独学の推義を述べてみると僧都が舌を巻いて、
「お前さんはただ人ではない。恐らくは大権化の現われでござろう。昔の論主に会ったからとてもこれ程のことはあるまいと覚える。智恵深遠なること言葉にも云い尽せない」といって一生の間毎年法然に供養をしたということである。
醍醐《だいご》に三論宗の先達で権律師《ごんりっし》寛雅という人があった。そこへ法然が訪ねて行って、自分の所存を述べて見ると、律師は総て物を云わないで聴いていたが、やがて内に立ち入って、文櫃《ふみびつ》十余合を取り出して法然の前に置き、
「ああ、わしが法門にはこれをつけてやるに足る人がない。それだのに君は既にこの法門に達している。これは自分の秘蔵の書物だが尽く君に奉る」といった。称美讃歎の程が思いやられる。進士入道阿性房《しんじにゅうどうあしょうぼう》等の人々が一緒に行ったが、このことを見聞して驚いて了った。
又|仁和寺《にんなじ》に華厳宗《けごんしゅう》の名宗で大納言|法橋慶雅《ほっきょうけいが》という僧があった。仁和寺の岡という処に住んでいたから、岡の法橋ともいわれていた。醍醐にも通っていたのか醍醐の法橋ともいわれていた。この人は法然の弟子阿性房が知っていた処から法然は華厳宗の不審を尋ね問わんとして阿性房を引き連れて訪問した処が、法橋がまず無雑作《むぞうさ》に云いだすことには、
「弘法大師の十住心《じゅうじゅうしん》は華厳宗によって作ったものである。このことを御室《おむろ》に申した処それは面白い議論である。早くもう少し研究して見るがよいと仰せられたから今考えている処だが」といわれた。
初対面のことではあったけれども、どうも腑《ふ》に落ちない。学問の習いで黙《もだ》し難く法然はいった。
「どうしてあれは華厳宗によって作ったものでございましょう。大日経《だいにちきょう》の住心品《じゅうしんぼん》の心を以て作られたものと思います。第六の他縁大乗心《たえんだいじょうしん》は法相宗の意でございます。第七の覚心不生心《かくしんふしょうしん》は三論宗でございます。第八の一道無為心《いちどうむいしん》は天台宗でございます。第九の極無自性心《ごくむじしょうしん》は華厳宗でございます。第十の秘密荘厳心《ひみつしょうごんしん》は真言宗でございます」と云って弘法大師の十住心論のはじめ異生羝羊心《いしょうていようしん》から終りの秘密荘厳心まで一々その偈《げ》を誦して道理を述べ、弘法大師の主意と自分の解釈のしようを細かに申し述べると、法橋がそれを聴いて、縁にいた阿性房を呼んで、
「どうだ、お前これを聞いたか。この様に心得ていて往生が出来ないということがあるものか。俺はこの華厳宗を相承しているけれどもこれ程分明に判ってはいなかった。他宗の者から聴かされた智恵が、自宗で習い伝えた義理に立ち越えている」といって随喜感歎甚だしく、法談数刻の後、法然は特に乞うて華厳宗の血脉《けちみゃく》並に華厳宗の書籍などを渡された。この法橋は最後には、法然上人を招請して戒を受け二字を奉り、戒の布施には円宗分類《えんしゅうぶんるい》という二十余巻の文を取り出して、
「慶雅はこの外には持っているものはない。上人に外の物を差しあげても仕方がないと思うから」
といって黒谷へ送り届けた。法然がその時云うよう、
「学問の妙理というものはこの通り帰すべきことには帰するものである。この法橋は華厳宗にとってはよき名匠であって、弁暁法印《べんぎょうほういん》もこの慶雅法橋のお弟子であるのに」と云われた。
法然上人が諸宗に通達しているということが、人口に普《あまね》くなった上右の慶雅法橋が御室(鳥羽院第五の皇子|覚性法親王《かくしょうほうしんのう》)の御前で、
「拙僧も自門他門多くの学生達《がくしょうたち》に会いましたけれども、この法然房のように物を申す僧には会ったことがござりませぬ」と称美したのを聞かれて御室から法然を招かれ、
「天台宗に就て学びたいことがある」と仰せられたが、法然はそれを辞退して、
「天台宗は昔は型の如く伝受いたしましたけれども、今はただ念仏になって天台宗は廃学いたしました。山門には澄憲《ちょうけん》、三井には道顕《どうげん》などの名匠が居りますから、あの人達をお召しになってお聴き遊ばすが如何《いかが》かと存じまする」と申し上げると、
「それ等はみんな最早聴いている処であるから辞退の申訳にはならぬ」と重ねて頻《しき》りに仰せがあったけれども、法然は尚堅く辞退する。
「左様ならば念仏のことを学問したい。その序《ついで》に少々談義をしたいこともある」と仰せられたけれども、自然に延び延びになって月日を送られていたが、後白河法皇御最期の時、法然が御善知識に召されて参った時に御室も御参会があって、その時に又右の話が出て、
「こうして在京の間に望みを叶えて貰えまいか」と云われた。
法然は、
「斯様《かよう》な折は物事忙わしくもあり、又お召の時も御座りましょうから、中間でまとまりのないことを申上げるも不本意でござりまする故そのうち静かに参上仕りましょう」とてそのついでも空しく止んで了った。その後幾ばくもなくて御室もお亡くなりになり、終《つい》にその望みは遂げられずに了ったが、斯くばかり懇切に志を尽されたのも法然が諸宗に達していたという為であった。
五
法然の言葉に、
「学問というものは創見ということが極めて大事である。師匠の説を伝習するのは容易《たやす》いことである。そこでわしは諸宗を学ぶのに諸宗自らの章疏《しょうしょ》を見て心得た」ということを云っている。詰《つま》り法然のはその道のその時代の学者に就て習い覚えた学問ではなくて、その学者を超越してもっと溯《さかのぼ》った源頭から自から読み得た処の学問であった。そこでその宗、その道の権威者に会うても更に恐るる処がなく、名目だけは彼等から聴き伝えても、その義理会解《ぎりえかい》はこちらが遙に優れた処にいる。戒律の中川少将上人、法相宗の蔵俊、師の慈眼房皆一代のその道の権威者であったけれども、後進の法然に舌を巻いたのはその故であった。俗に云えば法然程よく諸宗を見破っている者はなく、法然程公平に諸宗を判釈し得る者はなかったのである。
法然が弘法大師の十住心論を難じていた時のこと、それは源平の乱より先き嵯峨に住んでいた時分のことであった。或夜こんな夢を見たことがある。
法然が用事あって、他行《たぎょう》しているそのあとへ弘法大師から使があったという。そこで法然が心に思うには、これはわしが内々十住心論に就て難じていたことが聞えたのであるよな、と思って、そうしてやがて大師の処へ出かけて行くと、五間ばかりなる家の板敷もなく距《へだ》てもなく、ただうちには西方を塗り廻らした壁の入口も何もない処がある。大師はこの中においでなさるのだなと思ってまず外でコワヅクロイをして見るとその壁の中から「こなたへ」という声がする。その声について入って壁の内を見ると更にその戸というものがなくて壁の崩れたところのみがある。その崩れからくぐり入ると壁の際《きわ》に居られた大師と胸を合せて抱きあわれて了った。大師の顔が法然の左の肩に置かれて、そうして前々に難破することを一々|会釈《えしゃく》して居られる。なお重ねて何か云おうとするうちに夢が醒《さ》めた。それを後に考えて見ると自分の非難をしたことが皆大師のお心に叶ったものと覚える。ひしと抱き合ったということが大師のお心に叶ったと見えるのである。よくもお前は非難してくれたと、大師が思召《おぼしめ》されたから夢にもあの通り会釈されたのだ。すべて学問というものは後学恐るべしといって、学生《がくしょう》という者は学問にかけては必ずしも先達であるからということはないのである。釈迦如来の滅後五百年に五百の羅漢が集って婆沙論《ばしゃろん》を作ったのに、九百年に世親《せじん》が出でて倶舎論《ぐしゃろん》を作って先きのそれを破って了った。義の是非を論ずる場合にはあながち上古にも恐るまじきものであるぞといわれた。
法然は元《もと》天台の真言を習っていた。これは叡山に修学の当然であるが、中川の阿闍梨|実範《じちはん》が深く法然の法器に感じて許可|灌頂《かんちょう》を授け一宗の大事を残りなく伝えられた。
この実範という聖《ひじり》は東寺の流れで当時の正統を継ぐ真言の師範である。
このようにして法然は智恵第一の誉《ほま》れが一代に聞えた。実際当時日本に渡っていた聖教伝記《しょうぎょうでんき》の類を目に当てないものは一つもなかったといってよろしかろう。天台は固《もと》よりのこと他宗の総てに亙《わた》って一代の宗となる程の学力を有していた。禅の宗旨を論じた自筆の書物も存していたということである。
法然が或時|月輪殿《つきのわどの》で叡山の一僧と参り合せたことがあった。その僧が、
「あなたが浄土宗をお立てになったのは何れの文に依ったのでございますか」と尋ねた時法然は、
「善導大師の疏の附属の文によりました」と答えた。山の僧が重ねて、
「苟《いやし》くも一宗義を立つる程のことに、ただそれだけの一文に依るべきものですか」と詰問した。法然は微笑して何とも云わなかった。その僧が叡山に帰ってから山の宝地房法印証真《ほうじぼうほういんしょうしん》にこの事を話して、
「法然房も返答をしなかった」というと、宝地房が云うのに、
「法然房の物を云われなかったのは、云うに足らずと思ったからである。彼《か》の人は天台宗の達者である上に剰《あまつさ》え諸宗に亙ってあまねく修学して智恵の深遠なること常の人に越えている。返答が出来ないで物を云わないのだと思うようなことではならぬ」といわれた。
この法印は叡山に於て非常な学者で、一切経を繙《ひもと》き読むこと五返であったけれども恵心僧都《えしんそうず》が矢張り五返読んでいるという前例を憚《はばか》って三返だといった程で、時の地蔵菩薩の化身《けしん》と称していたこの法印が上人を智恵深遠と崇めていたのはよく法然を知る者と云うべく、他の人の賞美よりも意味が深いのである。
法然が老後に竹林房静厳法印《ちくりんぼうじょうごんほういん》の弟子が天台の法門を尋ねた。法然は、
「わしは近頃は老耄《ろうもう》の上に念仏一方で、久しく聖教《しょうぎょう》を見ないが」といってそれでも後進の為に委しく天台の深奥を説き聴かせたが、その文理の明なること、当時の学者よりも秀れていた。どうしてもただ人ではないと感じ入ったことがある。その頃山門に学者林の如く幾多の明匠もあったのを差置いて隠遁の法然に宗の大事を尋ねに来たことによってもその達している程が推し計られる。
法然が語って云うよう、
「わしは
前へ
次へ
全15ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング