聖教を見ない日とてはない。木曾《きそ》の冠者《かじゃ》が都へ乱入した時だけ只一日聖教を見なかった」それ程の法然も後には念仏の暇を惜んで称名《しょうみょう》の外には何事もしなかったということである。

       六

 法然はこれ程の学者であり天才であったけれども、学問と才気が到底自分の心身を救うことは出来なかった。名聞利養《みょうもんりよう》が如何ばかり向上するとても解脱《げだつ》、出離《しゅつり》の道を示してはくれない。学問が深くなり、名誉が高くなるにつれて、彼の心の煩悶は増して来た。
 一切経を開いてその道を求めんと繰返し読むこと五返、釈迦の一代教迹《いちだいきょうしゃく》の中に己《おの》れの心の落ちつき場と、踏み行くべき足跡を見つけようとしたが、つらつら思い見れば見る程、彼も難くこれも難い。
 そのうちに恵心僧都の「往生要集《おうじょうようしゅう》」は専ら善導大師の釈義を以て指南としている。そこで善導の釈義を辿《たど》って遂に、
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一心専念弥陀名号《いっしんせんねんみだみょうごう》 行住坐臥不問時節《ぎょうじゅざがふもんじせつ》 久近念念不捨者《くごんねんねんふじゃしゃ》 是名正定之業順彼仏願故《ぜみょうしょうじょうしごうじゅんひぶつがんこ》
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 という文につき当って末世の凡夫は弥陀の名号を称することによって、阿弥陀仏の願いに乗じて確かに往生を得るのだという確信に至り着いた。そこで立処《たちどころ》に余行を捨てて一向念仏に帰したのである。これぞ承安五年の春、法然四十三歳の時。
 或時法然が、「往生の業には称名に過ぎた行いはありませぬ」といわれたのを師の慈眼房《じげんぼう》が、
「いやいや称名よりは観仏《かんぶつ》が勝れている」といわれた。法然は押し返して、
「称名は弥陀の本願の行でございますからそれが勝れて居ります」という。師の慈眼房はなお承知しない。
「わしが師匠良忍上人も観仏が勝れているということをいわれたのだ」といった処が、
「良忍上人も先きにお生れになったからです」と法然が云ったので、師の慈眼房はその不遜に腹を立てた、法然は押し返して、
「されば善導和尚《ぜんどうかしょう》も、上来雖説定散両門之益望仏本願意在衆生一向専称弥陀仏名《じょうらいすいせつじょうざんりょうもんしえきもうぶつほんがんいざいしゅじょういっこうせんしょうみだぶつみょう》と釈をなさいました。称名が勝れているということは明かでございまする。聖教をばよくよく御覧になりませんで」といった。
 法然は一向専修《いっこうせんじゅ》の身となったので、叡山を立ち出でて西山の広谷《ひろたに》という処に居を移したが、やがて間もなく東山|吉水《よしみず》の辺に静かな地所があったものだから、広谷の庵《いおり》をそこへ移して住み、訪ねて来るものがあれば、布教をし、念仏を進められた。そこで日々に信者が集って念仏に帰する者が雲霞の如く群って来る。これが浄土法門念仏の発祥地であった。
 その後加茂の川原や、小松殿、勝尾寺《かちおでら》、大谷など、その住所は改まるとも勧化《かんげ》怠りなく遂に末法相応浄土念仏《まっぽうしょうおうじょうどねんぶつ》が四海のうちに溢るるに至った。
 東山大谷は法然上人往生の地である。その跡というのは東西三丈余、南北十丈ばかり、その中に立てられた坊舎であるから、その構えの程も大抵想像がつく。如何《いか》に質素倹約のものであったか思いやられて尊い。今の御影堂《みえいどう》の跡がそれである。
 法然が或時云う。
「わしは大唐の善導和尚の教えに従い本朝の一心《せんしん》の先徳のすすめに任せ、称名念仏の務め長日六万遍である。死期漸く近づくによって又一万遍を加えて、長日七万遍の行者である」といわれた。
 法然が、仏七万遍になってから後は昼夜念仏の外に余事を交《まじ》ゆるということなく、何か人が来て法門の話でもする時にはそれを聞く為か、念仏の声が少し低くなるだけのことで一向に念仏を差置くということはなかった。
 法然が或時語って云う。
「われ浄土宗を立つる心は凡夫《ぼんぷ》の報土に生るることを示さんが為である。他の宗旨によってはその事が許されないから、善導の釈義によって浄土宗を立てたのである。全く勝他の為ではない」
 法然が又或時|播磨《はりま》の信寂房《しんじゃくぼう》というのに向って、
「ここに宣旨《せんじ》が二つ下ったとして、それを役人が取り違えて鎮西へ遣わさるべき宣旨を坂東へ下し、坂東へ遣わさるべき宣旨を鎮西へ下すことになった時は、受けた人がそれに従い用うることが出来ますか」
 と尋ねた処、信寂房が暫く思案して、
「それは畏《おそ》れ多い宣旨とは申せ、取り替えられたものはどうも従い用い奉ることは出来ますまい」
 といわれた。そこで法然が、
「如何にも御房は道理を知れるお人である。帝王の宣旨を釈迦の遺教《ゆいきょう》とし、宣旨が二つあるとすれば、釈迦の教えにも正像末《しょうぞうまつ》の格別があるようなものである。聖道門《しょうどうもん》の修業は正像の時の教えであるが故に上根上智のものでなければ称することは出来ない。これを仮りに西国への宣旨とする。浄土門の修業は末法濁乱《まっぽうじょくらん》の時の教えであるから、下根《げこん》下智の輩《やから》を器とする。これを奥州への宣旨とする。それを取り違えてはならない。大原談義の時聖道浄土の議論があったが、法門に就ては互角の議論であったが、気根比べにはわしが勝ったのじゃ。聖道門は深いというけれども時が過ぎれば今の機にはかなわない。浄土門は浅いようではあるけれども当根に叶い易《やす》いと云った時、末法万年余経悉滅弥陀一教利物偏増《まっぽうまんねんよきょうしつめつみだいっきょうりもつへんぞう》の道理に折れて人々が皆心服したのだ」と。
 支那でも浄土の法門を述べる人師は多いけれども、法然は唐宋二代の高僧伝の中から曇鸞《どんらん》、道綽《どうしゃく》、善導《ぜんどう》、懐感《えかん》、少康《しょうこう》の五師を抜き出でて一宗の相承をたてた。その後俊乗坊|重源《ちょうげん》が、入唐《にっとう》の時法然が云うのに、
「唐土に右の五祖の影像があるに相違ない。必ずこれを持っておいでなさい」
 そこで重源が彼の地へ渡った後あまねく探し求めると、果して法然の云うた通り右の五僧一幅に描いた画像を見つけることが出来て重源は法然の鑑識の透徹していることに感心したそうである。この重源|将来《しょうらい》の画像はその後二尊院の経蔵に安置せられていた。

       七

 法然が黒谷で華厳経の講義をしていた時に青い小さい蛇が机の上にいた。それを居合せた法蓮房信空に向って、
「この蛇を取ってお捨てなさい」と法然が云えば法蓮房は生来非常の蛇嫌いの人であったけれども師命|背《そむ》き難く、こわごわその蛇を捕え、明り障子を開き塵取りに入れて投げ捨て障子をたててさて帰って見ると蛇が尚元の処にいた。それを見るとからだ中から汗が出てわなわな顫《ふる》え上った。法然がそれを見て、
「なぜ取り捨てないのか」と叱る。法蓮房は今あった儘《まま》を然々《しかじか》と答えると、法然は黙って何も云わなかった。その夜法蓮房の夢に、「大竜が形を現わして、われは華厳経を守護する処の竜神である。恐るるな」と云うと思って夢が醒《さ》めたということである。
 この類の奇瑞《きずい》がまだ沢山ある。
 上西門院は深く法然に帰依していたが、或時法然を請《しょう》じて七カ日の間|説戒《せっかい》があったが、円戒の奥旨を述べていると一つの蛇がカラガキの上に七日の間じっとして聴聞の様子に見えた。見る人があやしがっているうちに結願《けちがん》の日になるとその蛇が死んで了《しま》ったが、蛇の頭の中から一つの蝶が出て空に昇ると見た人もあり、天人の形で昇ると見た人もある。
 又法然が叡山の黒谷で法華三昧《ほっけざんまい》を行っていた時|普賢菩薩《ふげんぼさつ》が白象に乗って眼のあたり道場に現われたこともあれば、山王の影が形を現わしたこともあったという。
 或時は蓮華《れんげ》が現われ、或時は羯磨《かつま》が現われ、或時は宝珠が現われるといったような奇瑞。
 善導大師に就ては殊に傾倒が深かったと見え、紫雲棚引く曠野世界の中に、善導大師と対面なしたという夢を見たが、醒めて後、乗台《じょうだい》という画工に夢に見た処を描かせた。それが世間に流布して「夢の善導」という図になっているが、その面像は後に支那から渡った処のものに違わなかったということである。
 生年六十六歳、建久九年正月七日|別時念仏《べちじねんぶつ》の間には特に様々の異相奇瑞が現われたということが、自筆の「三昧発得記《さんまいほっとくき》」というものに見えているということである。

       八

 法然が三昧発得の後は暗夜にともし火がなくても眼から光を放って聖教を開いて読んだり室の内外を見たりした。法蓮房も眼のあたりそれを見、隆寛律師《りゅうかんりっし》などもそのことを信仰していた。或時ともし火の時分に法然が、長閑《のどか》にお経を見ているようであったから、正信房がまだ燈《あか》りも差上げなかったのに、とそっと座敷を窺うと左右の眼の隈《くま》から光を放って文の表を照して見て居られたが、その光の明かなること、燈火にも過ぎていた。余りの尊さに斯様《かよう》な内証は秘密にして置いた方がよいと抜き足して出て来たそうである。
 又或時夜更けに法然が念仏をするその声が勇猛であったから、御老体を痛わしく尊く思って正信房が若しも御用もやと、やり[#「やり」に傍点]戸を引き開けて見ると、法然の身体《からだ》から赫奕《かくえき》と光が現われ、坐っている畳二畳に一杯になっている。その明かなることは夕暮の山を望んで夕陽を見るようで、身の毛もよだつばかりに立ちすくんで了った。法然が、
「誰れじゃ」と問われたから、
「湛空《たんぐう》」と答えると、
「皆の者をも斯様にしてやりたいものだ」といわれたそうである。
 或時法然が念仏していると勢至菩薩《せいしぼさつ》が現われたことがある。その丈一丈余り、画工に云いつけてその相を写し留められたことがある。
 又或時草庵を立ち出でて帰って来ると絵像でもなく、木像でもない弥陀の三尊が垣を離れ、板敷にも天井にもつかずして居られたが、その後はこう云う姿を拝むのが常のことであったという。
 元久二年正月一日から霊山寺《りょうぜんじ》で三七日《みなぬか》の別時念仏を始めた時も、燈火が無くて光りがあった。第五夜になって行道すると勢至菩薩が同じ列に立ち入って行道した。法蓮房は夢の如くにそれを見たが、法然にその事を云うと、
「そういうこともあろう」と答えられた。余の人には見えなかったという。
 同じ年の四月五日に法然が月輪殿に参って数刻法談をして帰る時、兼実が崩れるように庭の上に降りて法然を礼拝し、額を地につけてやや久しくあったが、やがて起き直り、涙にむせびながら云われるには、
「上人が只今土を離れて虚空に蓮華を踏んでお歩きになり、うしろに頭光《ずこう》が現われておいでになったのを見なかったか」と。
 右京権大夫入道と中納言阿闍梨|尋玄《じんげん》の二人が御前に居たけれども、それを見なかったということである。池の橋を渡る時に、頭光が現われたので、その橋を頭光の橋と称《よ》ぶことになったそうである。
 又或人が法然から念珠を貰って夜昼名号を唱えていたが、或時フト竹釘に懸けて置くとその一家が照り赫《かがや》いていた。その光をただして見ると法然から貰った念珠から出た光で、その珠毎に歴々と光を放ち暗夜に星を見る如くであったという。
 法然の弟子の勝法房《しょうほうぼう》というのは、画を描くことが上手であったが、或時法然の真影を描いてその銘を所望した処が、法然がそれを見て、鏡を二面左右の手にもち、水鏡を前に置いて頂《いただき》の前後を見比べていたが、ここが違うといって胡粉《ごふん》を塗って
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