直し、
「これで似たぞよ」といって勝法房に与えられた。銘のことは何とも云われなかったが、勝法房が後日また参って所望を申出でた時法然は自分の前にあった紙に、
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我本因地  以[#二]念仏心[#一]  入[#二]無生忍[#一]
今於[#二]此界[#一]  摂[#二]念仏人[#一]  帰[#二]於浄土[#一]
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    十二月十一日[#地から5字上げ]源空
   勝法御房
 と書いて授けられたから、これを前の真影に押して敬い掲げた。これは首楞厳経《しゅりょうごんぎょう》の勢至の円通の文である。
 又或人が法然の真影を写して銘を頼んだ時もこの文を書いてやったことがある。
 又讃州生福寺に止まって居られた時は勢至菩薩の像を自作して、法然本地身。大勢至菩薩。為[#レ]度[#二]衆生[#一]故。顕[#二]置此道場[#一]。と記されたそうである。
 法然が勢至菩薩の応現であるということはその幼名によっても思い合される処であって、自分もまた何か感応する処があったものと見える。
 かく法然自身に様々の奇瑞が現われたという伝説があると同時に、法然を信ずる者の側にも様々の感得夢想が現われたということも甚《はなは》だ多い。或人は法然が蓮華の中で念仏をしていると見た。或人は天童が法然を囲《めぐ》って管絃|遊戯《ゆうげ》していると見た。或者は又洛中はみんな戦争の巷《ちまた》であるのに法然の住所だけがひとり無為安全であるのを見た。或者は又嵯峨の釈迦如来が法然の道を信ぜよとお告げがあったのを見た。この類の奇瑞、信仰数うるに絶えざるものあるも無理がない。

       九

 かくして法然は、上は王公から、下は庶民に至るまで、その徳風が流溢《りゅういつ》して来た。文治四年八月十四日のこと、後白河法皇が河東押小路《かとうおしこうじ》の御所で御修経のことがあった。その時の先達として法然上人が選ばれた。
 まずその日集る処の御経衆には法皇をはじめとして、妙音院入道|相国《しょうこく》(師長公)、叡山からは良宴法印、行智律師、仙雲律師、覚兼阿闍梨、重円大徳という顔触れ、三井《みい》の園城寺《おんじょうじ》からは道顕僧都、真賢阿闍梨、玄修阿闍梨、円隆阿闍梨、円玄阿闍梨という顔触れ、それに法然上人とその門弟行賢大徳が参加するのだが、山門寺門の歴々は慣例上是非ないことであるが、法然が特に召されてこの席に列《つらな》るということは非常なる特例である。ただその席に列ることでさえが非常なる特例であるが、この一座の上に立って先達を勤むるということは特に破天荒というべきである。この時代のやかましい宗教界、名刹《めいさつ》の上下でさえも焼き打ちが始まる宗教的確執、我慢の時に於て、何等の僧位僧官も無い平民僧の法然が、彼等の上に立って先達を勤むることが是認せられるということは殆んど想像以上の一大奇蹟と云わねばならぬ。
 その以前今日の御催しの時に東寺へも御沙汰があって、東寺からも僧を召されるというような噂を伝え聞いて、天台側から抗議が出た。
「こんどの御経衆に東寺の僧を召し出される風聞がございますが、そもそもこの御経衆は慈覚大師が初めてとり行われた法則でございます。他門の僧を召さるることはよろしくござるまいと存じます」
 東寺は弘法大師の真言宗である。山門寺門の天台側からこの抗議があって見ると、仮令《たとい》法皇の思召《おぼしめし》でもそれを押し切る訳には行かなかった。
 処が法然が召されるという噂があったに就ても山門寺門では故障異議を申出でることがないのみか、「あの上人ならば仔細《しさい》を申すことはない」との事であった。そこで法然が召されて単に御経衆に列るだけではない、一座の先達を勤むることに誰一人異議がなかったのである。
 固《もと》より法然は天台門から出た人ではあるが、今は自ら浄土の法門を開いた別宗の人の形になっている。それが特に召されて第一座を占め、先達を勤むることになって不足の云いようがないということは前にも後にも例のない程の圧倒的な人格の力といわねばならぬ。法然はこれを固く辞退したけれども勅定が頻《しき》りに降って辞するに由なくその勤めを行うことになった。
 その時の席順は正面の東西に席を設けて東の第一座が法然上人、西の第一座が後白河法皇、法然の次が入道相国(太政大臣師長)それから叡山の良宴法印以下が各々《おのおの》その位によって列座したのである。昔奈良朝の時、行基菩薩はあれ程の大徳であったけれども、世俗の法によって婆羅門《バラモン》僧正の下に着座をした。この例によると叡山を代表して良宴法印が法然上人の上座に着くべきであるが、法皇の別勅によって法然上人が第一座に着かせられ、山門の代表者も甘んじてそれに席を譲ることになった。太政大臣は固よりその次席である。そこで法然は礼盤《らいばん》にのぼりて啓白、その式を行われたのである。
 九月四日に観性法橋から進呈せられた御料紙《ごりょうし》をむかえらるる式がある。これも法然が申し行われる。同じき八日写経の水を迎えられること、同十三日御経奉納の式がある。これ皆国家の大事と同じ様な行幸があり、儀式がある。そのはなばなしい一代の盛儀に特に隠遁の法然を召し出して先達とせられたこと、帝王|帰依《きえ》の致す処とは云え、個人の徳望の威力古今無比といわねばならぬ。

       十

 のみならず高倉院御在位の時、承安五年春のこと、勅請があって、主上に一乗円戒を法然上人が授け奉った、という特例がある。これは清和天皇が貞観《じょうがん》年中に慈覚大師《じかくだいし》を紫宸殿《ししんでん》に請じて天皇、皇后共に円戒を受けられたという前例がある。法然上人は法統から云えば慈覚大師より九代の法孫に当る。法然一平僧の身を以てこの重大事の勅命を受け、慈覚以来の古《いにし》えを起したということは無上の破格であった。
 又後白河法皇の勅請によって、法然は法住寺の御所に参り、一乗円戒を法皇に授け奉った。その時には山門寺門の学者達を召されて、番々に「往生要集」を講じ、各々の所存を述べさせられたが、法然も仰せに従って披講《ひこう》をした。その時「往生極楽の教行《きょうぎょう》は濁世《じょくせ》末代の目足なり。道俗貴賤、誰れか帰せざらんもの」と読み上げただけで初めて聞かれたように貴い響があって胆に銘じ法皇の感涙が止まらなかったとのことである。その時御信仰の余り右京権大夫隆信朝臣に仰せつけられて法然の真影を図して蓮華王院の宝蔵におさめられたそうである。先きの世にも例の無いことだと云われる。
 斯様に後白河法皇は法然に帰依し、百万遍の苦行を二百|余箇度《よかど》まで功を積まれたということである。建久三年正月五日から法皇が御悩みあって、日毎に重らせられる。そこで御善知識の為めに法然に仰せが降った。二月二十六日に法然は法皇の御所に参じて、御戒を奉られ御往生の儀式を定め、重ねて念仏のことを申上げられ、それから三月の十三日に御臨終正念にして称名を相続しながら御端坐のままで往生を遂げさせられた。御年六十六。
 法皇が崩御遊ばされた後御菩提の為めに建久三年秋の頃、大和の前司|親盛《ちかもり》入道が、八坂の引導寺、心阿弥陀仏調声《しんあみだぶつちょうしょう》を行い、住蓮、安楽、見仏等の人達が助音して六時礼讃《ろくじらいさん》を修し、七日念仏した。結願《けちがん》の時種々の捧げ物を取り出でたのを法然は不受の色を表わして、
「念仏というものは自らの為の勤めである。法皇の御菩提に回向《えこう》をしたとは云え、もともと自らの為の念仏に他より布施を受くるとはもっての外のことである」と誡められた。これが六時礼讃の苦行のはじめである。
 後白河法皇の十三年の御遠忌に当って土御門院が御仏事を修せられた。それは元久元年三月のことで、その時法然は蓮華王院で浄土の三部経を書写せられ、能声を選んで六時礼讃を勤行して、ねんごろに御菩提をとぶらい申された。見仏の請によって浄土三部経を法華の如法経《にょほうきょう》になぞらえて書写すべき法則を定められたのもこの時である。
 後鳥羽院にも度々勅請あって、円戒を御伝授、上西門院、修明門院、同じく御授戒があった。三公、公卿、朝の内外仰いで伝戒の師としないものはない。

       十一

 公家のうちでは九条関白|兼実《かねざね》が(後の法住寺殿、又は月輪殿)法然に対する信仰は殊に比類のないものであった。
 二月十九日に法住寺殿の御忌日に御仏事があって、僧俗座を分けて立ち並ぶうちに法然も招請されたが、この時の席次に於ても慈鎮和尚《じちんかしょう》(僧正)・菩提山の僧正(信円)何れも一隠遁の平民僧である法然に向って正座を譲られた。
 兼実が月輪殿を造った時も、その御殿の中に一種異様な別棟を一つ建てられた。そこで奉行の三位範季卿という人が、
「今まで殿下の御所を多く拝見しました処こう云うお邸はまだ存じませぬ」という。
「そうでもあろうが、思う処があるのだから兎も角急いでくれ」
 といって建てさせられたが、これは法然の休み処のためであった。老体の法然をまずここに招いて休ませ、それから後に対面をするというためであった。或時の如きは、法然が月輪殿に出向いて行くと兼実は跣足《はだし》で降りてそのお迎えをした。処で居合せた聖覚法印、三井の大納言僧都というような顔触れも同じように跣足で降りて迎えなければならなくなったということである。
 建久八年(六十五歳)の時法然が少しく病気に罹《かか》った。兼実は深くこれを歎いたが、それでも病気は間もなく治《なお》った。その翌年正月の一日から法然は草庵にとじ籠って何れから招かるるも出て行かなかった。その時、兼実は藤右衛門尉重経《とううえもんのじょうしげつね》を使として法然に、
「浄土の法門年頃お教えを承りましたが、不敏にしてまだまだ心腑に収め難いものが多くございます。冀《こいねがわ》くはその要領を文にして記し賜りたい。その望みが叶えば御面談の代りにもなり、且《かつ》は後世への記念にも備えることが出来まする」
 と申越された。そこで法然が、この兼実の請を容れて弟子の安楽房に筆を執らせて著作をしたのが有名な「撰択集《せんじゃくしゅう》」である。
 この時の執筆者安楽房というのは外記入道師秀という者の子であるがこの時その撰択集の第三章を筆写せしめられた時、つぶやいて云うには、
「わたしが生《なま》じい字を書く人間でさえなければこう云う役廻りは仰せつけられなかっただろうに」
 といったのを法然が聞いて、「これは増長している。※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢な心が深いから悪道に落ちる奴だ」といって安楽房を退けてその後は真観房感西に書かせることにした。而《しか》してこの安楽房は、後年後宮女房のことから自分は斬罪に会い、師の法然を遠流《おんる》にするような事態を惹《ひ》き起した人物である。
 兼実は上述の如く法然が来る毎に降《くだ》り迎えをされる。摂政関白が既にこの通りだから、その以下の公家殿上人の降り騒がれることは容易のものではない。法然はそれを煩《うる》さいことに思って九条殿下へ(月輪兼実)参らないように、草庵にとじ籠《こも》りということを名にして、九条殿をはじめ、何処へも出て歩くことをしなかった。それを兼実は頻りに歎いて、「それでは仮令《たとい》房籠りの折と雖もわしの身に異例でもあるような時には見舞いに来て下さるだろうな」
 上人も左様な時には仔細に及ばないと申されたのを言質として、いつも病気とか、異例とかいって法然の処へ招請の使を寄せられる。法然も辞退し難くて月輪殿を訪ねる。それを門弟の正行房という者が心の中で思うよう、
「お上人も房籠りというて他所《よそ》へはおいでにならないで、九条殿へだけおいでになるということは、人によっては上人程のお方でも貴顕へは諂《へつら》っておいでになると謗《そし》る者がないとは限りません。おいでになるならば貴賤上下隔てなくおいでになるがよろしい。
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