おいでにならぬならば絶対にお籠りがよろしい。どうも九条殿だけへおいでになるのはよろしからぬように思われる」
というようなことを考えて寝たところが、その夜の夢に法然が枕許に現われて、
「正行房、お前はわしが九条殿へまいることをよく思うていないようだな」といわれる。
正行房が遽《あわ》てて、
「いいえどうして、そんなことを思いましょう」
法然それを打ち消して、
「いや、お前はたしかにそう思っている。お前のそう思うのも一応道理はあるが、九条殿とわしとは先きの世からの因縁である。他の人とは比較にならない。この宿習《しゅくじゅう》あることを知らないで、謗る心などを起さば罪になるぞ」といわれると見て夢が醒めた。醒めて後このことを法然に語ると、法然は、
「その通り、月輪殿とわしとは先きの世から因縁のあることじゃ」と云われたそうである。
こうして兼実は終に建仁二年(法然七十歳)正月二十八日月輪殿で出家を遂げ、法名を円証とつけ法然を和尚として円戒を受けることになった。
十二
大炊御門《おおいのみかど》左大臣(経宗)という人は月輪兼実とは違い、日頃から余り信仰のない人であったが、ある人の方便で上人を請じ屏風《びょうぶ》を距てて念仏談を聞き信仰心を起して法然に帰敬《ききょう》し、文治五年の二月十三日に生年七十一で出家を遂げたがその月八日臨終正念の往生をとげたという。
花山院左大臣(兼雅)は最初から深く法然に帰依し、鎮西の庄園の土貢を割いて毎年法然に寄附して来たが、云うよう、
「わしは院の御所より外には車を立てたことはない身だが、法然上人の庵に車を立てることは苦しくない」
といって常に訪問して円頓戒《えんどんかい》をうけ、念仏の法門を談ぜられたが、生年五十四歳、正治二年の七月十四日に出家をとげ、同じ十六日に往生を遂げた。
右京権大夫隆信も深く上人に帰依し、念仏の一行を勤めたが、遂に建仁元年法然に従って出家を遂げ、法名を戒心とつけた。六十四の時往生したが、臨終の時は奇瑞《きずい》があったということが、日本往生伝に記されている。
二品卿《にほんのきょう》の弟、民部卿範光という人は、後鳥羽院の寵臣であったが、つとに法然に帰依し、承元元年三月十五日五十四の時出家を遂げて静心《じょうしん》と号した。病気危急の時に後鳥羽院が忍んで御幸があったそうであるが、その時静心は夢に法然上人を見て往生の疑なきことを申上げたということである。
大宮内府《おおみやのだいふ》(実宗)も法然を主として出家入道し、臨終正念に往生を遂げた一人である。
野宮左大臣(公継)は法然と師弟の契り浅からず、興福寺の衆徒が法然の念仏興行をそねんで、法然及びその弟子と共にこの人をも流罪に行われたいということを奏上に及んだけれども、信仰の心少しも動かず、専修の勤めを怠りなく一生を終った人である。
十三
聖護院無品親王《しょうごいんむほんしんのう》(静恵)が御違例の時、医療の術を尽されたが、しるしが無い。大般若《だいはんにゃ》の転読、祈祷皆そのしるしなく既に危くおわしました時、上人を招請されたことがある。お使が二度までは堅く辞退してまいらなかったが、第三度の使に宰相律師実昌《さいしょうりっしじっしょう》という人が来て、たっての願いで引きたてる様にして頼むから、やがて律師の車に乗ってまいると親王が御対面あって、
「どうしたらこの度生死を離れられるか。後生を助け給え」
と頼まれて法然は臨終の行儀を談じ、それから弥陀本願の趣きを述べる。親王感涙頻りに下り法然に向って合掌したそうである。法然はやがて帰ってしまったが、その翌日宮は御往生がある。最期《さいご》の時に念仏一万五千を申されて、念仏と共に御息が止まったということで、なみいるおつきの人々皆感動し、実昌律師は後にこの御往生の趣きを法然に話したら、法然も喜んだということである。
延暦寺東塔の竹林房|静厳法印《じょうごんほういん》という者が、吉水の庵《いおり》に来て、
「如何にいたしたらこの度生死を離れることが出来ましょうや」
と尋ねると、法然は、
「それは源空こそお尋ね申したいところでございます」
と答えた。竹林房が押し返して尋ねるので法然が、
「源空は弥陀の本願に乗じて極楽の往生を期する外は全く知ることがありません」
法印が申さるるには、
「私の所存もまたその通りでございますが、よきお言葉を承ってその考えを堅くしようが為にお尋ね申すのでございます。それはそうでありましても、口に念仏を称《とな》えましても妄念がむやみに起って来て心が乱れるのをどうしたらよろしゅうございましょう」
法然が答えて、
「これは煩悩のなすところであるから、凡夫の力では何ともいたし方がありません。矢張りそれはそのままでただ本願をたよって名号を称えれば仏の願力に乗じて往生が出来るということを知るばかりであります」
法印の信心がそこで定まって疑念が忽ちに溶けて罷《まか》り帰った。
法然が清水寺で説教の時、寺家の大勧進沙弥印蔵《だいかんじんしゃみいんぞう》という者が、念仏の信仰に入り、滝山寺を道場として、不断常行念仏《ふだんじょうぎょうねんぶつ》をはじめて今に至るまで怠らぬ。これは文治四年のことである。
南都興福寺の古年童《こねんどう》という者、矢張り清水寺で法然上人の説教を聴いてから念仏に帰して、霊瑞がある。
建仁二年の三月十六日、法然が語って云う。
「慈眼房はわしにとっては受戒の師範である上に衣食住のこと皆|悉《ことごと》くこの聖《ひじり》に扶持をして貰った。だが法門をこの人に学んだ教えられたというわけではない。法門の義に就ては水火の如く論じ合ったこともある。この聖とわしとは南北に房を列べて住居をしていたが、或時慈眼房の前をわしが通ると、わしを呼び止めて、『大乗の実智を起さないで浄土に往生することが出来るか』と問われたから、わしは『それは往生が出来ますとも』と答えたら、『何にそう見えているか』と仰言《おっしゃ》るから、『往生要集の中に見えてございます』と申すと、聖が「わしも往生要集の中は見たぞ」と仰言る。そこでわしは「誰れでも中を見ないものはございますまい」と云い返したので慈眼房が腹をたてて枕をもって投げつけられたから、わしはやわらかに自分の房の方へ逃げて来ると、それを追っていらしって箒の柄で肩をたたかれたこともございます。又、或時は書物を持って来られてこれは何という言葉じゃと云われるから、これはこうと返答をすれば騒ぎだろうと思って、さあどういう意味でございましょうかと申すと、また腹立ちで、『お前の様な人間を置くのはこう云うことの相談にしたいからだ』と云われるような訳で、いつも争論にはなったけれども、最後には覚悟房という僧にわが名の二字を書かせて、却って弟子になって寺のお経や譲り文をも、もとは譲り渡しと書かれたのを取り返して進上と書き直して法然に贈って生々世々《しょうしょうせせ》互に師弟となる印であると申された。真言の師範であった相模阿闍梨重宴も最後には受戒の弟子となった、丹後の迎摂房《こうしょうぼう》も却って弟子となって浄土の往生をとげた。その時の院主僧都円長も最初のわしの師範であった美作の観覚得業も弟子になり皆自分の師範であった人が源空を戒師として弟子となった中にも、その時代の学者という学者は大抵慈眼房が戒を授けた弟子であるのに、その慈眼房が却ってこの法然の弟子となられたのは不思議のことである」と云って様々に語り聞かせたことがある。
建仁元年のこと左衛門志《さえもんのさかん》藤原宗貞という者がその妻の惟宗の子女と共に一寺を建立し、阿弥陀を本尊にし、脇士《きょうじ》には観音と地蔵とを安置し、事の序《ついで》をもって法然に供養を頼んだところ法然が、堂の中に入って見て、
「これは源空が供養すべき堂ではない」と云うて出て了った。願主が非常に狼狽して人に尋ねて、法然上人は勢至菩薩の垂跡《すいじゃく》であるとの専らの噂のあるのに、この堂にその菩薩が無いから上人の御心に添わないのだろう。そこで急いで勢至菩薩を拵《こし》らえ地蔵を脇へ移して、その後又序を以て法然に供養して貰い、これも不断念仏の堂となり、引摂寺《いんじょうじ》というて今に残り、勢至菩薩のうしろに地蔵様が隠れているということである。
十四
大原談義は天台の座主《ざす》顕真《けんじん》僧正が法然上人に向って念仏の要義を問われたことから始まっている。顕真と法然とは叡山の坂本で対面した。顕真僧正は例によって尋ねた。
「如何にしたらば生死《しょうじ》を離れることが出来ようか」
法然「それはあなたのお計らい通りになさるに越したことはございますまい」
僧正「貴僧はその道の先達《せんだつ》でござる故、定めて思いたつものがあるでござろう。それをお示し下されたい」
法然「左様、それは自分の為には少しは思い定めたこともあります。ただ早く極楽の往生をとげることでございます」
僧正「その往生というのがなかなかとげ難いことだから、そこでお尋ねをして見たのだ。どうしたら容易《たやす》く往生が出来るものかいな」
法然それに答えて、
「成仏ということはなかなかむずかしいが、往生は得易いことだと思います。道綽《どうしゃく》や善導の言葉に依れば、仏の願力を強縁として乱想の凡夫も浄土に往生することが出来るのでございます」
と、その日はそれだけで別条もなく、法然は帰って了ったが、その後で顕真座主がいうのに、法然房は智恵は深遠だけれども、どうも人間に聊《いささ》か偏固な欠点がある。
法然は顕真座主のこの言葉を聞いて、
「人間というものは自分の知らないことには必ず疑心を起すものだ」
この言葉を又顕真座主に告げる者があった。そこで顕真が、「なる程そう云われて見ればそうだ。わしは今迄|顕密《けんみつ》の学問に稽古を努めたけれどもこれはまあ名利の為といってもよろしい。至心に浄土を志したということもないから道綽や善導の釈義も窺っているとはいえないのだ。法然房でなければこう云うことを云うてくれる者はない」と。それから百日の間大原に籠って浄土の書物を研究して後、さて自分は浄土の法門にも一通り通じたのである。もう一度お話をお聴きしたい。就ては自分一人で折角のお談義を聞くのも勿体ないから人を集めて見よう。
そこで大原の立禅寺《りゅうぜんじ》に法然上人を屈請《くっしょう》した。元の天台の座主顕真僧正は、この法門はわれ一人のみ聴聞すべきにあらずと云うて、諸方に触れをして南都北嶺の高僧達を招き集めることにした。文治二年秋の頃、顕真の請によって法然は大原へ出かけて行った。東大寺の大勧進俊乗坊重源が弟子三十余人をつれてそれに従った。顕真法師の方には門徒以下の碩学、ならびに大原の聖達《ひじりたち》が坐しつらねている。その他山門の衆徒をはじめ、見聞の人も少ない数ではなかった。論談往復すること一日一夜である。法然は、法相、三論、華厳、法華、真言、仏心等の諸宗にわたって、凡夫の初心より仏果の極位《ごくい》に至るまで、修行の方法や、得度《とくど》のすがた等をつぶさにのべ、これ等の方は皆義理も深く利益もすぐれているから、機法さえ相応すれば得脱は疑う処ではないが、といって凡夫はこれにつき難い事を述べ、浄土の教門の事の理をきわめ言葉をつくして説き語り、
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ただこれ涯分の自証を述ぶるばかりなり。またく上機の解行《げぎょう》を妨げんとにはあらず。
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という謙譲なる註釈を以てその席は終った。座主をはじめ満座の衆皆心服して、
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かたちを見れば源空上人。まことは弥陀如来の応現かとぞ感嘆しあえりける。
法印香炉をとり高声念仏をはじめ行道したもうに。大衆みな同音に。念仏を修すること三日三夜。こえ山谷にみち。ひびき林野をうごかす。信をおこし縁を結ぶ人おおかりき。
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と「御伝」の本文にある。
以来顕真法印は専
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