修念仏の行者となり、念仏勧進の書を作り、又自身もその一人となって十二人の衆を置き、文治三年正月十五日より不断念仏を勝林院に行い、地内に五房を建て、その門下又|夫々《それぞれ》各所に念仏を宣伝し、俊乗房重源は上の醍醐に無常臨時の念仏をすすめ七カ所に不断念仏を興立し念仏の事業|愈々《いよいよ》隆盛の勢を示したのは大原問答の後のことである。

       十五

 慈鎮和尚(吉永僧正慈円)は法性寺《ほっしょうじ》忠通の子息であって山門の統領であり、名望一代に勝れた大徳であったが、この人も法然に就て念仏の行に帰し、法然を崇敬措かなかった。
 妙香院の僧正良快は月輪殿の子息で慈鎮和尚のお弟子として顕密の学者であったがこれも法然の感化により浄土念仏に帰して初心の行者の為に念仏の肝要を記したものがある。
 慈鎮和尚といい妙香院の僧正といい何れも名門の出であり、一代の有徳であり、その一代の行業は伝うべきもの甚だ多いが是等の大徳が帰敬《ききょう》し崇敬した法然の器量が思いやられる。

       十六

 高野山の明遍僧都《みょうへんそうず》は少納言|通憲《みちのり》の子であって三論の奥旨を極め、才名世に許されていたけれども、名利を厭《いと》い、勅命を避けて高野に隠遁していたが、或時法然の撰択集を読んで、「この書物は少し偏《かたよ》っている処があるわい」と思って眠りについた。その晩の夢に、天王寺の西門に数知れざる病人が寐《ね》ていたのを一人の聖が鉢に粥《かゆ》を入れて匙《さじ》を持って病人の口毎に粥を入れてやっているのを見て、あれは誰人かしらんと尋ねると傍にいる人が答えて、「法然上人でございます」というのを見て夢が醒めた。僧都が思うのに、これはわしが撰択集を少し偏っているわいと思ったのを誡められる夢であろう。この上人は機を知り、時を知りたる聖である。抑《そもそ》も病人というものは初めには柑子《こうじ》とか、橘《たちばな》、梨子《なし》、柿などの類を食べるけれども、後には僅にお粥をもって命をつなぐようになる。末世の世には仏法の利益が次第に減じて堅いものは食われず、念仏三昧の重湯で生死を離れるのであると云うことを悟って、それからたちまち顕密の諸行を差置いて専修念仏の門に入りその名を空阿弥陀仏と名づけた。とりわけ聖徳太子にゆかりのある仏法最初の伽藍《がらん》天王寺によってこの夢を見たことを不思議の縁としている。
 法然が天王寺に詣でた時、明遍僧都がここへ訪ねて案内があった。法然は客殿に待っていて「さあこれへ」といわれる。明遍僧都はさし入ってまだ居直らない先きに尋ねかけて云う。
 僧都「さてこの度|如何《いかが》いたして生死を離れたものでござりましょう」
 法然「南無阿弥陀仏と唱えて往生を遂ぐるに越したことはありますまい」
 僧都「たれも左様にお聞き申しては居りますが、ただその折角の念仏の時に心が散乱し、妄念の起るのを如何いたしたものでござりましょう」
 法然「欲界の散地《さんち》に生を受くる者、心の散乱しないということがござりましょうや。煩悩具足《ぼんのうぐそく》の凡夫の身がどうして妄念を止めることが出来ましょう。そのことに就ては私とても力の及ぶことではござりませぬ。ただ心は散り乱れ妄念は競い起るとも、口に名号を唱えなば弥陀の願力に乗じて必ず往生が致されるということだけを知って居ります」
 と返事した。
 僧都「それを承りたいがためにまいったのでござります」
 といって明遍僧都はそのまま罷《まか》り帰ってしまった。あたりの人がそれを見て、この両名僧初対面であるに拘らず、一言も世間の礼儀の挨拶もなくて別れられたのは如何にも尊いことだと感心した。僧都が帰ってから法然はうちへ入って側近の人に向って云うよう。
「心を静め妄念を起さないで念仏をしようと思うのは生れつきの眼鼻をとり払って念仏をしようと思うようなものじゃ」といわれた。
 その後明遍僧都は深く法然に帰依《きえ》して専修の行《ぎょう》怠りなかった。
 法然が亡くなった後にはその遺骨を一期《いちご》の問頭にかけて後には鎌倉右大臣の子息である高野の大将法印定暁に相伝えられた。
 貞応三年六月十六日八十三歳の高齢をもって念仏相続して禅定に入るが如く往生せられた。

       十七

 安居院《あぐい》の法印聖覚は入道少納言通憲の孫に当り、澄憲大僧都の真の弟であるが、これも法然の化道《けどう》に帰して浄土往生の口決《くけつ》を受けたが、法然からは特に許されていたと見え大和前司親盛入道が法然に向って、
「あなたが御往生の後はどなたに疑を質したらよろしゅうございますか」と尋ねたところ法然が、「聖覚法印我が心を知れり」といわれたとのことである。
 この法印が書を著わして広く念仏をすすめられた。それは「唯信鈔《ゆいしんしょう》」である。
 元久二年八月法然が瘧病《ぎゃくびょう》を患うたことがあった。月輪殿が驚いて医者を呼ばれて様々療治を尽されたけれども治らない。そこで御祈祷の為に、詑摩《たくま》の法眼《ほうげん》澄賀《ちょうが》に仰せて善導和尚の姿を描かせ、後京極殿が銘を書き、安居院の聖覚法印を導師とした、聖覚も同じ病に冒されていたが師の為に進んで祈乞をこらすと善導の絵姿の前に異香が薫じ、法然も聖覚も共に瘧病が落ちたとのことである。
 法然の三回忌の時には追善の為に(建保二年正月)この法印は、真如堂で七日間説教をしたがその終りに、
「もしわしがこうして物を云うたことがわが大師法然上人の云われなかったとならば当寺の本尊御照罰あらせ給え」と再三の誓言をして後、
「もし尚不審があろうという人は鎮西の聖光房に尋ね問われるがよい」
 といわれた時、聴衆の中に一人の隠遁の僧があったが、己《おの》れの草庵には帰らないで直ぐ筑後の国に下って聖光房につき門弟となり、九州|弘通《ぐずう》の法将となったものがある。敬蓮社《きょうれんじゃ》というものがそれである。
 この法印は文応二年三月五日六十九歳にして念仏往生を遂げた。
 上野国《こうずけのくに》の国府に明円という僧があったが遊行《ゆぎょう》の聖《ひじり》が念仏を申し通ったのを留めて置いて、自分の処へ道場を構え念仏を興行していたが、或夜の夢に、われはわが朝の大導師聖覚という者である。法然上人の教えによって極楽に往生したというようなことを夢見て、それからそれと尋ねて聖覚法印の墓に詣で、夢の中の感化を喜び感喜の涙を流し二心なき専修の行者になったという奇談がある。

       十八

 法然上人の「念仏本願撰択集」は月輪殿の請によって選んだものであるが、その要領を少々記して見ると、
 まず第一段に道綽禅師《どうしゃくぜんじ》が聖道浄土の二門を樹てて、聖道門に帰するの文、一切衆生に皆仏性があるというのに今に至る迄生死に輪廻《りんね》して救われないのは、二種の勝法《しょうぼう》があるのに、それによって生死を払わないせいである。その二種の勝法とは何ぞ。聖道門と浄土門であるが、この二つの門のうち聖道門はなかなか修行がむずかしく、末世の凡夫はこの聖道の修行によって救われることは出来ない。それが浄土の門に行くと極めて安らかな修行によって救われる方便がある。そこで今時の人は聖道門を捨てて浄土門に帰するがよいという。
 阿弥陀如来は他の行を以て往生の本願とせず、ただ念仏をもって本願とする。
 無量寿経《むりょうじゅきょう》上巻の本願の文を引いて云う。念仏は最も優れ余行は劣る。それは名号の中には万徳が備わっているからである。例えば家といえば、その建物全部を称えるけれども、棟とか梁とか柱とか云ったのでは一部分しか含まれていない。そこで家といえば全体を云うように、弥陀の名号を称えれば全体の功徳に呼びかけることが出来る。仏像を作ったり、塔を建てたりすることが本願ならば貧乏人は往生出来ないことになる。智恵があり才学の高いのをもって本願とすれば愚鈍不智のものは往生の望みがなくなる。自戒自律を以て本願とすれば破戒無戒の人は永久に救われないということになる。そこで阿弥陀如来が法蔵比丘《ほうぞうびく》の昔平等の慈悲に催されて普《あまね》く一切を救わんが為に唱名念仏の本願を建てられたのである。
 右の趣旨を多くの経文を引いてつぶさに述べられたのが即ち撰択本願念仏宗《せんじゃくほんがんねんぶつしゅう》である。

       十九

 月輪殿北政所《つきのわどののきたのまんどころ》も同じように法然を信じて念仏往生のことを尋ねられたが、法然がそれに答えた返事の手紙というのが残っている。
 阿波介《あわのすけ》という陰陽師《おんようじ》が法然に給仕して念仏をしていたが、或時法然がこの男を指して、
「あの阿波介が申す念仏とこの源空が申す念仏と何れが勝っているか」と聖光房に尋ねられたところが、聖光房は心中に何か考うる処はあったけれども、
「それはどういたしまして、御上人の念仏と阿波介が念仏と一緒になりましょう」と答えたのでその時法然が由々しく気色が変って、
「お前は日頃浄土の法門といって何を聴いているのだ。あの阿波介も、仏たすけ給えと思って南無阿弥陀仏と申している。この源空も仏助け給えと思って南無阿弥陀仏と申している。更に差別はないのである」
 といわれたから、聖光房も固《もと》より、それとは思っていたけれども、法然からそういわれて宗義の肝腎今更の様に胸に通ったということである。
 二念珠《にねんじゅ》ということをやりだしたのはこの阿波介である。阿波介は百八の念珠を二連持って念仏をしたから人がその故を尋ねると阿波介が答えて、
「暇なく上下すればその緒《お》が疲れ易《やす》い。一連では念仏を申し、一連では数をとって積る処の数を弟子にとれば緒が休まって疲れません」
 と答えたので法然がそれを聞いて、
「何事も自分の心に染《し》みていると才覚が出て来るものである。阿波介は性質は極めて愚鈍の人間だが往生の一大事が心にしみているからこそ斯様《かよう》な工夫も考えだすのだ」とほめたということである。
 或修行者が浄土教の教義は分っていたが、まだ信心が起らないので嘆いていた。或時東大寺に参詣すると、丁度棟木を挙げる日で、おびただしい材木をどうして引き揚げるのかと心配して見ていると轆轤《ろくろ》を使って大木をひき上げ、思う処へどしどしと落し据えた。それを見て成程良工の謀《はかりごと》はうまいものだ。まして況《いわ》んや、弥陀如来の善行方便をやと思って疑いが晴れて信心が決まった。この時はかねて法然から三宝に祈請《きしょう》すべしということを教えられて東大寺に参詣しての思わぬ獲物であった。
 聖如房という尼も法然の教えに帰していたが、病気に罹《かか》っていよいよ臨終という時にもう一度上人にお目にかかり度いということを申越して来たが、法然は丁度別行の時であったから、手紙で細々《こまごま》と書いてやった。その手紙が残っている。その中に「我等が往生はゆめゆめ我身のよきあしきにより候まじ。ひとえに仏の御力ばかりにて候べきなり」というようなことがある。その手紙の心のおもむきを深く心に留めてめでたき往生をとげたということである。
 仁和寺《にんなじ》に住んでいた一人の尼が法然の処に来て申すよう、
「私は千部の法華経を読むように願をたてまして、七百部だけは読んでしまいましたが、もうこの年になっては残りを読みきれそうもござりません。なさけないことでござります」
 と歎いたのを法然が慰めて、
「お年をとっているのによくそれでも七百まで読みましたね。ではその残りを一向念仏になさいまし」
 といって念仏の効能を説き聞かせその通りにさせて安楽の往生をとげさせたことがある。法然のお弟子がその往生振りを夢に見たという奇談もあった。

       二十

 河内《かわち》の国に天野四郎《あまののしろう》と云うて強盗の張本があった。老年になってから法然のお弟子となって、教阿弥陀仏と名乗って常に法然の膝元で教えを受けていたが、或晩夜中に法然が起きていて、ひそ
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