つとむべしと云ふことを
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あみだ仏といふより外は津の国の
なにはのこともあしかりぬべし
極楽へつとめてはやくいでたたば
身のをはりにはまゐりつきなん
阿弥陀仏と心は西にうつせみの
もぬけはてたる声ぞすずしき
光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨の心を
月影のいたらぬ里はなけれども
ながむる人のこころにぞすむ
三心の中の至誠心の心を
往生はよにやすけれとみな人の
まことのこころなくてこそせね
睡眠の時十念を唱べしと云ふ事を
阿弥陀仏と十声唱へてまどろまん
ながきねぶりになりもこそすれ
上人てづから書付給へける
千とせふる小松のもとをすみかにて
無量寿仏のむかへをぞまつ
おぼつかなたれかいひけんこまつとは
雲をささふるたかまつの枝
池の水人の心に似たりけり
にごりすむことさだめなければ
むまれてはまづ思ひいでんふるさとに
契し友のふかきまことを
阿弥陀仏と申すばかりをつとめにて
浄土の荘厳見るぞうれしき
元久二年十二月八日 源空
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三十一
かくて法然の念仏興行が一代の流行をきわめて来ると当然門下のうちにも、あふれ者が出て来る。また他の方面から嫉妬妨害も盛んに起って来る。
南都北嶺の衆徒の中から念仏を阻止妨害しようとの運動が起って来た。最初からその雲行が険難であったが、終《つい》に元久元年の冬、山門大講堂の庭に三塔会合して専修念仏を停止《ちょうじ》すべしということを議決して、座主《ざす》の大僧正真性に訴え申した。
法然はこのことを聞いて、進んでは衆徒のいきどおりをなだめ、退いては弟子の僻見を戒むる為に、自分の門徒を集めて七カ条の起請文《きしょうもん》を作り、門下の主立てるもの八十余人の名を連署して、天台座主僧正に差出した。
その署名した師弟の名は、
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元久元年甲子[#「甲子」は1段階小さな文字]十一月七日 沙門源空 在判[#「在判」は1段階小さな文字]
信空 感聖 尊西 証空 源智 行西
聖蓮 見仏 道亘 導西 寂西 宗慶
西縁 親蓮 幸西 住蓮 西意 仏心
源蓮 源雲 欣西 生阿 安照 加進
導空 昌西 道也 遵西 義蓮 安蓮
導源 証阿 念西 行首 尊浄 帰西
行空 道感 西観 尊成 禅忍 学西
玄耀 澄西 大阿 西住 実光 覚妙
西入 円智 導衆 尊仏 蓮恵 源海
安西 教芳 詣西 祥円 弁西 空仁
示蓮 念生 尊蓮 尊忍 業西 仰善
忍西 住阿 鏡西 仙空 惟西 好西
祥寂 戒心 顕願 仏真 西尊 良信
綽空 善蓮 蓮生 阿日 静西 度阿
成願 覚信 自阿 願西
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それから又別に座主に向っても起請文を認めている。皆丁寧に自派の宗徒の放逸を戒め、反省をうながしたもので、如何にも神妙なあやまり証文になっている。少しも意地を立てたり、自我を主張したりする処はない。神妙な自省と弁明とを以て尽している。そこにも法然その人の大さを見るようである。起請文の日附には何れも元久元年十一月七日と書いてある。
月輪殿もまたこのことを非常に歎いて、自ら手紙を以て座主大僧正に向けて法然の為に弁護釈明をされた。けれども山門の方は、とにかく、興福寺の憤りは猶止まない。翌年九月に蜂起して法然並にその弟子権大納言公継を重き罪に行われたいということを訴えた。しかしながら朝廷の上下に法然の帰依者が多く、又念仏の邪道に赴く輩はそれらの浅智より起ったので法然の咎《とが》ではないということの宣旨が十二月二十九日に下った。
三十二
こんなような訳で嫉妬妨害者が起って来る。そこで法然は生死を厭い仏道に入るべきいわれ、別しては無智の道俗男女の念仏をすることによって、諸宗の妨げとはならないということを聖覚法印に筆を執らせて一文を作らせた。それが「それ流浪三界のうちいずれのさかいにおもむきてか釈尊の出世にあわざりし。輪廻四生のあいだいずれの生をうけてか如来の説法をきかざりし。……」という元久法語又の名登山状の一文章である。
三十三
そうして南都北嶺の訴えは次第に止まり専修念仏の興行は無難に進んでいったようなものの、なお内心にはその流行を快しとせざる空気が至る処充満していた。
建永元年十二月九日のこと後鳥羽院が熊野へ行幸のことがあった。その時法然のお弟子住蓮、安楽等が東山鹿の谷で別時念仏を始め、六時礼讃ということを勤めた。それは定まれる節や拍子もなく、各々哀歓悲喜の音曲をなし、珍しくもまた人の心をうつものが多かったから、聴衆も多く集まり、それを聞いて発心する人も少くはなかったうちに、御所の留守の女房連が、それにききほれて、遂に断りなく出家をしてしまった。後鳥羽院遷幸の後、そのことを聴かれて、大に逆鱗《げきりん》あり、翌年二月九日住蓮、安楽を庭上に召されて罪を定むる時、安楽房が、
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見有修行起瞋毒《けんうしゅぎょうきしんどく》。方便破壊競生怨《ほうべんはえきょうしょうえん》。如此生盲闡提輩《にょししょうもうせんだいはい》。
毀滅頓教永※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]淪《きめつとんきょうえいちんりん》。超過大地微塵劫《ちょうかだいちみじんごう》。未可得離三途身《みかとくりさんずしん》。
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の文を読み上げたので、逆鱗愈々さかんにして、ついに官人秀能に仰せて六条川原で安楽を死刑に行われてしまった。
安楽を死刑に処せられた後も逆鱗なお止まず、それにこれを機会として多年法然の念仏興行に多大の嫉妬と反感を持っていた勢力が喰い入ったものか、遂にその咎が師の法然にまで及んで来た。
法然は「藤井元彦《ふじいのもとひこ》」という俗名を附けられて土佐の国へ流されることになった。その宣下状に云う。
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太政官符 土佐国司
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流人藤井元彦
使|左衛門府生《さえもんのふしょう》清原武次 従二人
門部《かどべ》二人 従各一人
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右流人元彦を領送のために。くだんらの人をさして発遣くだんのごとし。国よろしく承知して。例によりてこれをおこなえ。路次の国。またよろしく食済具馬壱疋をたもうべし。
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建永二年二月二十八日[#地から3字上げ]符到奉行
[#地から3字上げ]右大史中原朝臣
[#地から3字上げ]左少弁藤原朝臣
追捕《ついぶ》の検非違使《けびいし》は、宗府生久経、領送使は左衛門の府生武次であった。法然帰依の輩がこの大事件を聞いて歎き悲しむこと例《たと》うるにものなく、門弟のうち皆々住蓮、安楽が既に死刑に処せられた上は、上人のお咎めとしては念仏興行の理由ばかりであるから、表面上一切の興行をお止めになって、内々で御教化をするようにして、上へ御宥免《ごゆうめん》を願うように致したい。御老体を波路遠くまでおいでなさるようなことになってはお命の程も思われる。どうかさようにお計いをお許し下さいましといって赦免の運動を試みようとしたが法然はそれを聞かなかった。
「流されることも更に怨みとすることはない。わしももう年八十に近い。たとい皆の者と同じ都に住んでいてもこの世の別れは遠くない。たとい山海をへだつとも浄土では遠からず会えるのだ。嫌やでも人間は生きる間は生きている。惜しがっても死ぬ時には死ぬのが人の命じゃ。必ずしも処によるということはない。ましてこの念仏の興行も都ではもはや年久しいことだ。これから辺鄙《へんぴ》に赴いて、田夫野人をすすめることが年頃の本意であったが、まだいろいろ事繁くしてその本意を果すことが出来なかった。それを丁度この度の事件で果すことが出来るようになったのは有難い朝恩といわねばならぬ。人が止めようとしても法は更に止まるものではない」
といって進んで配所へ赴くことになり、その際にも丁度一人の弟子に対して一向専念の教えを述べはじめた。それを聞いてお弟子の西阿弥が驚いて上人の袖を控え、
「念仏は御停止《ごちょうじ》でございます。左様なことをおっしゃっては御身にとりて一大事でございます。皆々御返事をしてはなりません」
と師の身を思うて云い出すと、法然は西阿に向い、
「そちは経釈の文を見たか」
西阿答えて、
「経釈の文はどうありましょうとも、今の場合の世間態が――」
と口籠《くちごも》ると法然が、
「われはたとい死刑に行わるるともこのことを云わなければならぬ」
官人は小松谷の房へ行って、「急いで配所へお移りなさるように」と責めた。そこで遂に法然は都を離れて配所の旅に赴くことになった。
月輪殿は名残《なご》りを惜んで、法性寺の小御堂に一晩お泊め申した。月輪殿の歎きは尋常でなかったけれども、今は主上の御憤りが強い時であるから却っておいさめ申しても悪い。そのうち御気色をうかがって御勅免を申請うということを語られた。月輪殿の傷心のほどはよその見る眼も痛ましいものであった。
三十四
三月の十六日に愈々都を出でて配所への旅立ちになる。
信濃の国の御家人角張成阿弥陀仏という者が力者《りきしゃ》の棟梁として最後の御伴《おとも》であるといって御輿《みこし》をかついだ。同じようにして従う処の僧が六十余人あった。
法然は一代の間、車馬、輿などに乗らず常に金剛草履をはいて歩いていたが、今は年もとった上に何分長途のことであるから、輿に乗せられたのである。
何しても絶代の明師が不測の難に遭《お》うて遠流《おんる》の途に上るのだから、貴賤道俗の前後左右に走り従うもの何千何万ということであった。
それにしても土佐の国までは余りに遠い。月輪禅定の骨折りによって、その知行国である讃岐国《さぬきのくに》へ移されるように漸く嘆願が叶ったのである。月輪殿は歌を詠んで名残《なご》りを惜しまれた。
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ふりすててゆくはわかれのはしなれど
ふみわたすべきことをしぞおもふ
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法然の返辞、
[#ここから2字下げ]
露の身はここかしこにてきえぬとも
こころはおなじ花のうてなぞ
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鳥羽の南の門から川船に乗って下ることになった。
摂津の国|経《きょう》の島《しま》に着いた。ここは平の清盛が一千部の法華経を石の面に書写して海の底へ沈めたところである。島の老若男女が多く集って、法然に結縁した。
播磨の国高砂の浦へ着いた時も多くの人が集まって来た中に、年七十余りになる老翁が六十余りの老女を連れて、
「わしはこの浦の漁師で子供の時分からすなどりを業とし、朝夕魚貝の命を取って世を渡る家業をしていますが、ものの命を殺す者は地獄に落ちて苦しめられるとのことでございますが、どうしたらそれを遁れられましょう。お救い下さいまし」
と法然の前に手を合せた。法然が、
「それはお前さん達のような商売の者でも南無阿弥陀仏といって念仏をしさえすれば仏様のお願いによって極楽浄土に生れることが出来ますよ」
といって教えた。二人とも涙にむせんでよろこび、その後は昼は浦に出て常の如く漁師をし、夜は家に帰って二人とも声を合せて終夜念仏し、あたりの人も驚く程であったが非常に平和な生涯を終えたということである。
また同じ国の室《むろ》の泊《とまり》についた時に、小舟が一艘《いっそう》法然の船へ近づいて来た。何ものかと思えばこの泊の遊女の船であった。その遊女が云うのに、
「上人のお船だということを承って推参いたしました。世を渡る道というものは様々ありまするうちにも、何の罪で私はこう云う浅ましいなりわいをするような身となったのでございましょう。この罪業重き身がどうして後生を助かることが出来ましょうか」と。法
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