然がそれをあわれんで、
「左様左様、お前さんのようにして世渡りをするということは罪障まことに軽いものではない。祟《たた》りや報いが計り難いことじゃ。若《も》しそれをしないで、世を渡るべき方法があるならば、早速その商売をお捨てなさい。若しその方法もなく、また身命を顧みずしても道に進むという程の勇猛心が起らないならば、ただそのままで一心に念仏をするがよい。阿弥陀様は左様な罪人の為に弘《ひろ》く誓いをおたてになったのだ。――」
ということを懇《ねんごろ》に教えたので、遊女は随喜の涙を流した。法然その態を見て、
「この遊女は信心堅固である。定めてよき往生がとげられるに相違ない」といった。
その後上人が許されて都へ帰る時に訪ねて見ると、この遊女は法然の教えを受けて後はこのあたり近い処の山里に住んで、一心に念仏をし立派な往生を遂げたということを聞いて、法然は、
「そうであろうそうであろう」と云われたとか。
三十五
三月二十六日に讃岐の国|塩飽《しあく》の地頭《じとう》、駿河権守高階保遠《するがごんのかみたかしなやすとお》入道西忍が館に着いた。西忍はその前の晩に満月の光|赫《かがや》いたのが袂に宿ると夢を見てあやしんでいたのに法然が着いたと聞いて、このことだと思い合わせ、薬湯を設け、美膳をととのえ、さまざまにもてなした。ここで法然は念仏往生の道を細かに授け、中にも不軽大士《ふぎょうだいじ》の故事を引いて、如何なることを忍びても、人を勧めて念仏をさせるようにしなさい。敢て人の為ではない。といって教えた。
讃岐の国子松の庄に落ついて、そこの生福寺という寺に住し、そこで教化を試みたが、近国の男女貴賤市の如くに集まって来る。或は今迄の悪業邪慳《あくごうじゃけん》を悔い改め、或は自力難行を捨て念仏に帰するもの甚だ多かった。「辺鄙の処へ移されるのもまた朝恩だ」と喜ばれたのも道理と思われる。[#「思われる。」は底本では「思われる」]この寺の本尊阿弥陀如来の脇士として勢至の像を法然自から作って文を書いて残しておいたということである。
法然が流された後というもの、月輪殿が朝夕の歎き他所《よそ》の見る目も傷わしく、食事も進まず、病気もあぶないことになった。藤中納言光親卿を呼んで、
「法然上人の流罪をお救い申すことが出来ないで、後日を期し、御気色を窺って恩免をお願いして見ようとしたけれど、こうしているうちに、もうわしのからだがいけなくなった。今生の怨みはこのことだ。せめて御身達わしの心を汲んで上人の恩免のことをよくよくお取り計らいなさるように」といわれたから、光親卿は涙ながらにそのことを承知して、御安心なさいというているうちに四月五日臨終正念にして、念仏数十遍禅定に入るが如く月輪殿で往生を遂げられた。行年五十八歳であった。かくてこの師弟は遂に死期に会うことが出来ないで、離れ離れに生別死別という悲しいうき目を見せられて了った。
このことを配所にあって聞いた法然の[#「法然の」は底本では「法念の」]心の中推し計るばかりであった。
法然が、配流のこと遠近に聞えたうちに、武蔵国の住人津戸三郎為守は深くこれを歎いて、武蔵の国から遙々《はるばる》讃岐の国まで手紙を差出したが、法然はそれに返事を書いて、
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「七月十四日の御消息。八月二十一日に見候ぬ。はるかのさかいに。かように仰せられて候。御こころざし。申つくすべからず候。……」
[#ここで字下げ終わり]
と書いて今生の思い知るべきことと、往生の頼むべきことを痛切に書いている。
直聖房という僧は矢張り法然のお弟子となって念仏の行をしていたが、熊野山へまいっている間に法然が流されるという話を聞いて急いでその跡を追おうとしたが俄に重病に罹《かか》ってうごけなくなった。権現に祈ると、「死期はもう近づいている。お前は安らかに往生するがよい。法然上人は勢至菩薩の生れかわりだからお前はそう心配することはない」というおつげがあったから安心して往生を遂げたということである。
法然はこの国にあって化道《けどう》の傍ら国中の霊地を巡礼して歩いたが、そのうち善通寺にも詣でた。この寺は弘法大師が父の為に建てられた寺であるが、その寺の記文の中に、「ひとたびももうでなん人は。かならず一仏浄土のともたるべし」とあるのを見て、この度の思い出はこのことであるといって喜んだ。
三十六
藤中納言光親卿は、月輪殿の最後の頼みによって様々に、法然上人恩免の運動をして見たけれども、叡慮お許しがなかった。しかし上皇が或る夢を御覧になったことがあり、中山相国(頼実)もさまざまに歎いて門弟のあやまちをもって咎を師範に及ぼすことの計り難いことをおいさめ申すことなどもあって、遂に最勝四天王院供養の折大赦が行われた時、御沙汰があって、承元元年十二月八日勅免の宣旨が下った。その条に、
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太政官符 土佐国司
流人藤井元彦
右正三位、行権中納言、兼右衛門|督《かみ》、藤原朝臣隆衡宣。奉[#レ]勅。件の人は。二月二十八日事につみして。かの国に配流。しかるをおもうところあるによりて。ことにめしかえさしむ。但しよろしく畿の内に居住して。洛中に往還する事なかるべし。諸国よろしく承知して、宣によりてこれをおこなえ。
[#ここで字下げ終わり]
承元元年十二月八日[#地から3字上げ]符到奉行
[#地から3字上げ]左大史小槻宿禰
[#地から3字上げ]権右中弁藤原朝臣
勅免があったとはいえ、まだ都のうちに出入をすることは赦《ゆる》されないで、畿内のうちに住むことだけを赦されたに過ぎない。配流された地方土民たちは別れを惜しみ京都の門弟達は再会を喜ぶ。
かくて配所を出でて、畿内に上り、摂津国押部という処に暫く逗留していたが、ここで念仏門に入った老若男女が夥《おびただ》しかった。
左様にして都のうちへはまだ出入りを許されない間摂津国勝尾寺に暫く住んでいた。この寺の西の谷に草庵を結んで住んでいると、僧達の法服が破れてみにくかったから弟子の法蓮房に京都の檀那へ云い遣わして装束を十五具整えて施された。寺僧はよろこんで、臨時に七日の念仏を勤行《ごんぎょう》した。
またこの寺には一切経がないということを聞いて法然は自分所持の一切経一蔵を施入した処、住僧達喜びの余り老若七十余人華を散し、香をたき、幟《はた》を捧げ、蓋《きぬがさ》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]してお迎えをした。この経論開題供養《きょうろんかいだいくよう》の為に聖覚法印を呼び招くことになった。法印はこの使命を受けて師弟再会を喜びながら導師を勤めたが、その時の表白文が残っている。
かくて勝尾寺の隠居も最早四カ年になった。京都への出入がまだ許されない。処が建暦元年夏の頃上皇が八幡宮に御幸のあった時一人の倡妓があって、王者の徳失のことを口走り出した。
このことが法然流罪に関連して評議された。そのうち又上皇が夢を御覧になったり、蓮華王院へお詣りになった時、何者とも知れず衲衣《のうえ》を着た高僧が近づいて法然の赦免について苦諫奏上することなどがあって驚かれている処へ、例の光親卿の運動や、その他があずかって、同じき十一月十七日にお許しの宣下が下り、そこではじめて法然が再び都の土を踏むことが出来たのは同じき二十日の日のことであった。
都へ入ってからの法然は、慈鎮和尚の計らいで大谷の禅房に住いをすることになった。はじめて都へ来た時に供養をのべんとして群参の者その夜のうちに一千人あったとのことである。それから引続いて幽閑の地にいたけれども訪ね来る人は連綿として絶えなかった。
三十七
建暦二年正月二日から法然は食事が進まず疲労が増した。総《すべ》て三四年この方は耳もよく聞えず、眼もかすんでいたが、この際になって明瞭にかえったようで、人が皆不思議に思った。二日以後は更に余の事を云わず、往生のことを話し、念仏の声絶えず、眠っている時も口と舌とは動いていた。三日の日に或る弟子が往生のことを、「御往生は如何」と尋ねる。
「わしはもと極楽にいた身だから又極楽へ帰って行くであろう」と。
又法蓮房が問うて曰《いわ》く、
「古来の先徳皆その御遺蹟というものがありまする。しかるに上人にはまだお寺を一つお建てになったということがございません。御入滅の後は何処を御遺蹟といたしましょうか」
と尋ねた。法然答えて、
「一つの廟所《びょうしょ》と決めては遺法が普《あまね》くわたらない。わしが遺蹟というところは国々至る処にある。念仏を修する処は貴賤道俗をいわず、あまがとまやまでもみんなわしの遺蹟じゃ」
十一日の巳《み》の刻に弟子が三尺の弥陀の像を迎えて病臥の側に立て、
「この御仏を御礼拝になりますか」といった処が、法然は指で空を指して、
「この仏の外にまだ仏がござる。拝むかどうか」といった。それはこの十余年来念仏の功が積って極楽の荘厳仏菩薩《しょうごんぶつぼさつ》の真身を常に見ていたが、誰れにも云わなかった。今|最期《さいご》に臨んでそれを示すといったそうである。
また弟子達が仏像の手に五色の糸をつけて、
「これをお取りなさいませ」
といった処が、法然は、
「斯様のことは常の人の儀式である。我身に於てはそうするには及ばぬ」
といって取らなかった。二十日の巳の時から紫雲が棚引いたり、円光が現われたり、さまざまの奇瑞があったということである。
二十三日から法然の念仏が或は半時或は一時、高声念仏不退二十四日五日まで病悩のうちにも高声念仏は怠りなかったが二十五日の午《うま》の刻から念仏の声が漸くかすかになって、高声が時々交じる。まさしく臨終であると見えたとき、慈覚大師の九条の袈裟を架け、頭北面西にして、
「光明遍照《こうみょうへんじょう》。十方世界《じっぽうせかい》。念仏衆生《ねんぶつしゅじょう》。摂取不捨《せっしゅふしゃ》」
の文を唱えて眠るが如く息が絶えた。音声が止まって後、なお唇舌を動かすこと十余反ばかりであった。面色殊に鮮かに笑めるが如き形であった。これは当に建暦二年正月二十五日午の正中のことであった。春秋満八十歳、釈尊の入滅の時と年も同じ、支干もまた同じく壬申《みずのえさる》であった。
武蔵国の御家人桑原左衛門入道という者、吉水の房で法然の教えを受けてから、国へ帰ることを止め祇園の西の大門の北のつらに住いして念仏をし、法然に参して教えを受けていたが、報恩の為にとて上人の像をうつして法然に差上げた。法然がその志に感心して自からその像に開眼《かいげん》してくれた。法然が往生の後はその像を生身の思いで朝夕帰依渇仰していたが、やがて往生の素懐をとげた。年頃同宿の尼が本国へ帰り下る時、その像を知恩院へ寄附した。当時|御影堂《みえいどう》にある木像がそれである。
三十八
法然の最期の前後にその門徒の人々が様々な夢を見たり、奇瑞《きずい》を見たりしたことがある。参議兼隆卿は上人が光明遍照の文を誦して往生する処を夢み、四条京極の簿師真清は往生の紫雲と光りと異香とを夢に見、三条小川の陪従信賢が後家の養女、並に仁和寺の比丘尼西妙はその前夜法然の終焉《しゅうえん》の時を夢み、その他花園の准后の侍女参河局、花山院右大臣家の青侍江内、八幡の住人|右馬允《うまのじょう》時広が息子金剛丸、天王寺の松殿法印、一切経谷の袈裟王丸、門弟隆寛律師、皆それぞれ法然の往生を夢みて一方ならぬ奇瑞を感得している。
法然の住居の東の岸の上に、襾《おお》われた勝地がある。或人がこれを相伝して自分の墓と決めておいたが、法然が京都へ帰った時、その人がそれを法然に寄進した。法然が往生の時ここへ廟堂を建てて石の空櫃《からびつ》を構えて収めて置いた。この廟所についても多くの奇瑞が伝えられている。この地の北の庵室に寄宿している禅尼、地主、その隣家の清信女だとか、清水寺の住僧別当入道惟方卿の娘粟田口禅尼というような人がふし
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