申すにつけても、主君のお名残《なごり》も恋しく、師の法然上人も極楽できっと待っているとの仰せの程も思い合わされます。釈尊も八十で御入寂《ごにゅうじゃく》になり、法然上人も八十でもう御往生、わしもこれで満八十じゃ。八十を上下にした第十八は念仏往生の願いの数であり、今日は又十八日に当る。如法念仏の結願に当って、今日往生したならまことに殊勝の往生が出来るであろう」
と物語った。聴いている人は、為守にその用意のあることを知らないから、何気なく、
「左様でござる。今日のような日に往生が出来たら芽出たいことにちがいありません」といった。
ところが、その夜もあけて、十九日になったけれども、腹を切って五臓六腑を捨ててしまった尊願が死にも、往生もしない、立派に生きている。しかも苦痛も何もなく、やがて死ぬような心持さえもしないようだから、子息の民部大夫守朝を呼んで、切った腹を引きあけて見せて、
「この通り往生の心で腹を切ったが、死にもせねば苦痛もない。五臓六腑を取り捨ててしまったが、たぶんまだ、まろきも[#「まろきも」に傍点]というものが残って、それで死に切れないものだろうと思う。よく見てくれ」
と
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