る。
 この熊谷は念仏往生の信心を堅めた上はどうしても上品上生《じょうぼんじょうしょう》の往生をとげなければおかないといって願をたてた。そして、いつも不背西方《ふはいさいほう》の文を深く信じ、かりそめにも西の方へ背を向けなかった。京から関東へ下る時なども、鞍を逆さに置かせて、馬にも逆さに乗って西へ向いながら東へ下るのであった。そして歌を詠んで云うことには、
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浄土にもがうのものとやさたすらん
  にしにむかひてうしろみせねば
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 すべてが熊谷一流の信心堅固であったから、法然もそれをたのもしく思って、坂東の阿弥陀ほとけという名で呼ばれ、目をかけて教えたり、手紙で細々とさとされたりしていたが、そういう中に於ても持ち前の荒武者は至る処ころがり出して、なにか道中で悪い奴などが出ると或は馬船をかずけたり或はほだしを打ったり、或は縛ったり、或は筒をかけなどしていましめておいた。そういった了見かたで是非ともおれは上品上生の往生をしなければおかぬ、というのが専ら評判になり、月輪関白《つきのわかんぱく》なども、わざわざそのことを法然に尋ねている。
 建永元年
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