期の時に紫雲が棚引く等の様々の奇瑞が伝えられている。
西明寺の禅門は武門の賢哲、柳営の指南として重き地位の人であった。若い時分は常に小倉の草庵へ訪ねて念仏の安心のことなどを尋ねられた。寛元年間に使を立てて申越される旨には、
「わしも年頃念仏の行者として西方を願う心はねんごろである。栗の木とは西の木と書く。西方の行人としては丁度おもしろい名であるから、多年この杖を持っていたが、今は老体で余り出歩きも出来ないから、この杖をあなたに進ぜます。これを持って浄土へおいでなさいまし」
といって栗の木の杖を送り越して来たから、その返しのおくに、
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老らくのゆくすゑかねておもふには
つくづくうれし西の木の杖
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そうして弘長二年の頃法然の孫弟子の敬西房《きょうさいぼう》という者が(これは法蓮房の弟子)関東へ下る時に、法然の伝《つて》を持たせてやった処、数日それを読んで、法然との間に手紙の往復があったが、その翌年十一月二十二日に臨終正念にして端座合掌の往生をとげられたというが、その往生際は、唐衣《からぎぬ》を着て、袈裟《けさ》をかけて西の方に阿弥陀仏
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