この御庵室にもの申す。西方浄土《さいほうじょうど》からお詣りが遅いから、急いでおいでがあるように阿弥陀仏からのお使いでございます」
 そこで成家が喜んでその僧を客殿へ招き入れ、丁寧にもてなし様々の引出物を与えることにした。これがその後ずっと元日の吉例になっていたということである。
 その辺の山里には鹿が多くいて、作物を荒すので百姓達は田畑に垣を作って防いでいるのを見て成家はわざわざ上田を三丁程作らせて鹿田と名付け、鹿の食物にさせた。
 なお田植唄には念仏を唱えさせることにした。宝治二年の九月に少しからだが悪かった。その時弟の淡路守後基を招きよせて、
「わしはもう老病で遠くはあるまい。対面も今日が限りだろう。お前も罪悪深重の人であるから必ず念仏をして、わしと同じ様に浄土へまいるようになさい。仮令《たとい》鹿鳥を食べる時にも念仏を噛みまぜて申すがよい。たとい敵に向って矢を引くとも念仏を捨ててはならない」
 と教訓した。弟を帰してから後で同族を集めて念仏をし、その翌日十六日に端座合掌して光明遍照の文を誦し、高声念仏一時間ばかり唱えて禅定《ぜんじょう》に入るが如くにして息絶えた。生年七十五。最
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