》の刻に往生するからといっていたが、間違いなくその時刻に端座合掌し高声念仏して往生をとげた。様々の奇瑞があって人の耳目を驚かしたそうである。
二十五
これまで京洛を中心として法然の教化が上下に普かったが、それから鎌倉の二位尼(頼朝の妻政子)の帰依《きえ》が深く、蓮上房尊覚という者を使として念仏往生のことを尋ね越されたから、法然はそれにも返事を書いている。その中に、
「強《あなが》ちに信ぜざらん人を。御すすめ候べからず。仏もかない給わざる事なり」
「念仏の行は。もとより行住座臥時処諸縁をきらわず。身口《しんく》の不浄をきらわぬ行にて易行往生《えぎょうおうじょう》と申し候なり。ただし心をきよくして申すを。第一の行と申し候なり。人をも左様に御すすめ候べし。ゆめゆめこの御心は。いよいよつよくならせ給え候べし」
上野国の御家人、大胡《おおご》小四郎隆義は在京の時吉水の禅室に参じて法然の教えをうけて念仏の信者となったが、国へ下ってから不審のことは法然給仕のお弟子、渋谷七郎入道道遍を通じて法然の教えを受けていたが、法然は細かに返事の消息を遣わされている。隆義の子太郎実秀も父の後
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