の緒《お》が疲れ易《やす》い。一連では念仏を申し、一連では数をとって積る処の数を弟子にとれば緒が休まって疲れません」
と答えたので法然がそれを聞いて、
「何事も自分の心に染《し》みていると才覚が出て来るものである。阿波介は性質は極めて愚鈍の人間だが往生の一大事が心にしみているからこそ斯様《かよう》な工夫も考えだすのだ」とほめたということである。
或修行者が浄土教の教義は分っていたが、まだ信心が起らないので嘆いていた。或時東大寺に参詣すると、丁度棟木を挙げる日で、おびただしい材木をどうして引き揚げるのかと心配して見ていると轆轤《ろくろ》を使って大木をひき上げ、思う処へどしどしと落し据えた。それを見て成程良工の謀《はかりごと》はうまいものだ。まして況《いわ》んや、弥陀如来の善行方便をやと思って疑いが晴れて信心が決まった。この時はかねて法然から三宝に祈請《きしょう》すべしということを教えられて東大寺に参詣しての思わぬ獲物であった。
聖如房という尼も法然の教えに帰していたが、病気に罹《かか》っていよいよ臨終という時にもう一度上人にお目にかかり度いということを申越して来たが、法然は丁度別行
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