る。そこで今時の人は聖道門を捨てて浄土門に帰するがよいという。
 阿弥陀如来は他の行を以て往生の本願とせず、ただ念仏をもって本願とする。
 無量寿経《むりょうじゅきょう》上巻の本願の文を引いて云う。念仏は最も優れ余行は劣る。それは名号の中には万徳が備わっているからである。例えば家といえば、その建物全部を称えるけれども、棟とか梁とか柱とか云ったのでは一部分しか含まれていない。そこで家といえば全体を云うように、弥陀の名号を称えれば全体の功徳に呼びかけることが出来る。仏像を作ったり、塔を建てたりすることが本願ならば貧乏人は往生出来ないことになる。智恵があり才学の高いのをもって本願とすれば愚鈍不智のものは往生の望みがなくなる。自戒自律を以て本願とすれば破戒無戒の人は永久に救われないということになる。そこで阿弥陀如来が法蔵比丘《ほうぞうびく》の昔平等の慈悲に催されて普《あまね》く一切を救わんが為に唱名念仏の本願を建てられたのである。
 右の趣旨を多くの経文を引いてつぶさに述べられたのが即ち撰択本願念仏宗《せんじゃくほんがんねんぶつしゅう》である。

       十九

 月輪殿北政所《つきのわ
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