《ゆいしんしょう》」である。
元久二年八月法然が瘧病《ぎゃくびょう》を患うたことがあった。月輪殿が驚いて医者を呼ばれて様々療治を尽されたけれども治らない。そこで御祈祷の為に、詑摩《たくま》の法眼《ほうげん》澄賀《ちょうが》に仰せて善導和尚の姿を描かせ、後京極殿が銘を書き、安居院の聖覚法印を導師とした、聖覚も同じ病に冒されていたが師の為に進んで祈乞をこらすと善導の絵姿の前に異香が薫じ、法然も聖覚も共に瘧病が落ちたとのことである。
法然の三回忌の時には追善の為に(建保二年正月)この法印は、真如堂で七日間説教をしたがその終りに、
「もしわしがこうして物を云うたことがわが大師法然上人の云われなかったとならば当寺の本尊御照罰あらせ給え」と再三の誓言をして後、
「もし尚不審があろうという人は鎮西の聖光房に尋ね問われるがよい」
といわれた時、聴衆の中に一人の隠遁の僧があったが、己《おの》れの草庵には帰らないで直ぐ筑後の国に下って聖光房につき門弟となり、九州|弘通《ぐずう》の法将となったものがある。敬蓮社《きょうれんじゃ》というものがそれである。
この法印は文応二年三月五日六十九歳にして念仏往
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