ず、一言も世間の礼儀の挨拶もなくて別れられたのは如何にも尊いことだと感心した。僧都が帰ってから法然はうちへ入って側近の人に向って云うよう。
「心を静め妄念を起さないで念仏をしようと思うのは生れつきの眼鼻をとり払って念仏をしようと思うようなものじゃ」といわれた。
その後明遍僧都は深く法然に帰依《きえ》して専修の行《ぎょう》怠りなかった。
法然が亡くなった後にはその遺骨を一期《いちご》の問頭にかけて後には鎌倉右大臣の子息である高野の大将法印定暁に相伝えられた。
貞応三年六月十六日八十三歳の高齢をもって念仏相続して禅定に入るが如く往生せられた。
十七
安居院《あぐい》の法印聖覚は入道少納言通憲の孫に当り、澄憲大僧都の真の弟であるが、これも法然の化道《けどう》に帰して浄土往生の口決《くけつ》を受けたが、法然からは特に許されていたと見え大和前司親盛入道が法然に向って、
「あなたが御往生の後はどなたに疑を質したらよろしゅうございますか」と尋ねたところ法然が、「聖覚法印我が心を知れり」といわれたとのことである。
この法印が書を著わして広く念仏をすすめられた。それは「唯信鈔
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