を致さねばなりませぬが、有為を厭い、無為に入るのが真実の報恩であるとの教文もござります。一旦の別離を悲しんで永日の悲歎をお残しなされぬように」
と再三なぐさめの言葉を申した。母もこの理《ことわり》に折れて承諾の言葉を述べたけれども袖に余る悲しみの涙が我が小児の黒髪をうるおした。その悲しみの思いを歌って、
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かたみとてはかなき親のとどめてし
この別れさへまた如何にせむ
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そうしてはじめて比叡の西塔《さいとう》北谷、持宝房源光《じほうぼうげんこう》が許へ勢至丸を遣わされた。その時叔父の観覚の手紙には、
進上、大聖文殊像《だいしょうもんじゅぞう》一体
と、文殊は智恵である。この子が智恵の優れた子であるということを示す為であった。
かくて勢至丸十五歳|近衛院《このえいん》の御宇、久安三年の二月十三日に山陽の道を踏み上って九重の都の巷《ちまた》に上り著いた時、途中時の摂政《せっしょう》であった藤原忠通の行列に行き会ったので、勢至丸は馬から降りて道の傍によけていると、摂政殿が勢至丸を見て車を止められて、
「いずくの人ぞ」
とお尋ねがあっ
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