月の一日から法然は草庵にとじ籠って何れから招かるるも出て行かなかった。その時、兼実は藤右衛門尉重経《とううえもんのじょうしげつね》を使として法然に、
「浄土の法門年頃お教えを承りましたが、不敏にしてまだまだ心腑に収め難いものが多くございます。冀《こいねがわ》くはその要領を文にして記し賜りたい。その望みが叶えば御面談の代りにもなり、且《かつ》は後世への記念にも備えることが出来まする」
 と申越された。そこで法然が、この兼実の請を容れて弟子の安楽房に筆を執らせて著作をしたのが有名な「撰択集《せんじゃくしゅう》」である。
 この時の執筆者安楽房というのは外記入道師秀という者の子であるがこの時その撰択集の第三章を筆写せしめられた時、つぶやいて云うには、
「わたしが生《なま》じい字を書く人間でさえなければこう云う役廻りは仰せつけられなかっただろうに」
 といったのを法然が聞いて、「これは増長している。※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢な心が深いから悪道に落ちる奴だ」といって安楽房を退けてその後は真観房感西に書かせることにした。而《しか》してこの安楽房は、後年後宮女房のことから
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