信仰は殊に比類のないものであった。
二月十九日に法住寺殿の御忌日に御仏事があって、僧俗座を分けて立ち並ぶうちに法然も招請されたが、この時の席次に於ても慈鎮和尚《じちんかしょう》(僧正)・菩提山の僧正(信円)何れも一隠遁の平民僧である法然に向って正座を譲られた。
兼実が月輪殿を造った時も、その御殿の中に一種異様な別棟を一つ建てられた。そこで奉行の三位範季卿という人が、
「今まで殿下の御所を多く拝見しました処こう云うお邸はまだ存じませぬ」という。
「そうでもあろうが、思う処があるのだから兎も角急いでくれ」
といって建てさせられたが、これは法然の休み処のためであった。老体の法然をまずここに招いて休ませ、それから後に対面をするというためであった。或時の如きは、法然が月輪殿に出向いて行くと兼実は跣足《はだし》で降りてそのお迎えをした。処で居合せた聖覚法印、三井の大納言僧都というような顔触れも同じように跣足で降りて迎えなければならなくなったということである。
建久八年(六十五歳)の時法然が少しく病気に罹《かか》った。兼実は深くこれを歎いたが、それでも病気は間もなく治《なお》った。その翌年正
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