い」
 といわれた。そこで法然が、
「如何にも御房は道理を知れるお人である。帝王の宣旨を釈迦の遺教《ゆいきょう》とし、宣旨が二つあるとすれば、釈迦の教えにも正像末《しょうぞうまつ》の格別があるようなものである。聖道門《しょうどうもん》の修業は正像の時の教えであるが故に上根上智のものでなければ称することは出来ない。これを仮りに西国への宣旨とする。浄土門の修業は末法濁乱《まっぽうじょくらん》の時の教えであるから、下根《げこん》下智の輩《やから》を器とする。これを奥州への宣旨とする。それを取り違えてはならない。大原談義の時聖道浄土の議論があったが、法門に就ては互角の議論であったが、気根比べにはわしが勝ったのじゃ。聖道門は深いというけれども時が過ぎれば今の機にはかなわない。浄土門は浅いようではあるけれども当根に叶い易《やす》いと云った時、末法万年余経悉滅弥陀一教利物偏増《まっぽうまんねんよきょうしつめつみだいっきょうりもつへんぞう》の道理に折れて人々が皆心服したのだ」と。
 支那でも浄土の法門を述べる人師は多いけれども、法然は唐宋二代の高僧伝の中から曇鸞《どんらん》、道綽《どうしゃく》、善導《
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