の善導和尚の教えに従い本朝の一心《せんしん》の先徳のすすめに任せ、称名念仏の務め長日六万遍である。死期漸く近づくによって又一万遍を加えて、長日七万遍の行者である」といわれた。
 法然が、仏七万遍になってから後は昼夜念仏の外に余事を交《まじ》ゆるということなく、何か人が来て法門の話でもする時にはそれを聞く為か、念仏の声が少し低くなるだけのことで一向に念仏を差置くということはなかった。
 法然が或時語って云う。
「われ浄土宗を立つる心は凡夫《ぼんぷ》の報土に生るることを示さんが為である。他の宗旨によってはその事が許されないから、善導の釈義によって浄土宗を立てたのである。全く勝他の為ではない」
 法然が又或時|播磨《はりま》の信寂房《しんじゃくぼう》というのに向って、
「ここに宣旨《せんじ》が二つ下ったとして、それを役人が取り違えて鎮西へ遣わさるべき宣旨を坂東へ下し、坂東へ遣わさるべき宣旨を鎮西へ下すことになった時は、受けた人がそれに従い用うることが出来ますか」
 と尋ねた処、信寂房が暫く思案して、
「それは畏《おそ》れ多い宣旨とは申せ、取り替えられたものはどうも従い用い奉ることは出来ますま
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