ういっこうせんしょうみだぶつみょう》と釈をなさいました。称名が勝れているということは明かでございまする。聖教をばよくよく御覧になりませんで」といった。
 法然は一向専修《いっこうせんじゅ》の身となったので、叡山を立ち出でて西山の広谷《ひろたに》という処に居を移したが、やがて間もなく東山|吉水《よしみず》の辺に静かな地所があったものだから、広谷の庵《いおり》をそこへ移して住み、訪ねて来るものがあれば、布教をし、念仏を進められた。そこで日々に信者が集って念仏に帰する者が雲霞の如く群って来る。これが浄土法門念仏の発祥地であった。
 その後加茂の川原や、小松殿、勝尾寺《かちおでら》、大谷など、その住所は改まるとも勧化《かんげ》怠りなく遂に末法相応浄土念仏《まっぽうしょうおうじょうどねんぶつ》が四海のうちに溢るるに至った。
 東山大谷は法然上人往生の地である。その跡というのは東西三丈余、南北十丈ばかり、その中に立てられた坊舎であるから、その構えの程も大抵想像がつく。如何《いか》に質素倹約のものであったか思いやられて尊い。今の御影堂《みえいどう》の跡がそれである。
 法然が或時云う。
「わしは大唐
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